ここからは、一茶の句は『一茶俳句データベース』に拠る。

https://ohh.sisos.co.jp/cgi-bin/openhh/search.cgi

 

1-1-4.「哉かな」と活用語の終止形

形容詞終止形「し」との併用

時鳥笠雲もなし山家かな 文政9    ほととぎす かさくももなし やまがかな 

三段切れが気ぜわしくて好きになれないが、「し」の音は好まれるらしくてよく見かける。「笠雲もなし」を「雨の降る予兆は無い」解して、山中の家を見上げながら帰るべき古郷を思ったか。

「時鳥笠雲のなき山家かな」とすると、巨大な山家になってしまうし、

「時鳥笠雲のなき山の家」では、焦点は「笠雲のなき山」へと移ってしまうし、

「時鳥笠雲ぬぎし山の家」とか、オシャレのフリをしても無駄。

 

 

あら寒し寒しといふも栄よう哉 文化8 あらさむし さむしというも さかええうかな ようかな

「栄よう」は「栄燿」と書き、「ええう(よう)」とも「えいえう(よう)」とも読み、意味は「贅沢」。「栄耀栄華えいえうえいぐゎ」などと。

「といふ」があるので、「あら寒し寒し」と額装された如き文言で、形容詞終止形「寒し」は「哉」と競合せずに済んでいる。 

 

助動詞終止形「らむ(らん)」「む(ん)」との併用

から人と雑魚寝もすらん女哉 寛政5 からひととざこねもすらん おんなかな

大陸から来た人も半島南部から来た人も「からびと」と呼んだが、「唐人」「韓人」と書き分けた。

雁鴨にゆるりとかさん畠も哉 文化1 かりかもに ゆるりとかさん はたもかな

「らむ」は見えない処で(水平的に)起きている事態を推測し、「む」は時間的にこの先に(垂直的に)起きる事態を「推測」するので、切字の資格があるかないか、ようワカラン。

※想像の水母がどうしても溶ける 池田澄子

「手づかみの水母の溶けてしまふらん」嘘はキケンですが。

 

助動詞終止形「ぬ」との併用。この「ぬ」は連用形と接続するので、例えば「書きぬ」となり、「書かぬ」と未然形と接続すれば打消し「ず」の連体形に。

日も暮ぬ大路に一人踊哉   文化2 ひもくれぬ おおじにひとり おどりかな

「暮る」は下二段活用なので、未然形も連用形も「くれぬ」となるので紛らわしいが、その時は意味を捉えて考える。ここでは、「大路」が「日に照らされている」なら未然形でも良いが、そうでもなさそうなので、完了の「ぬ」。「ぬ」「哉」と切字を二つ使うと、どっちを向けばいいのか。

「日も暮て大路に一人踊哉」と習い始めのように、

「宵の口大路に一人踊哉」と小賢しく、

「ふる里の大路に一人踊哉」と限界集落っぽく、

「ブラジルの大路に一人踊哉」と独り旅に、なんぞとワープは自由、人生は面白い。

横道に逸れすぎたが、一茶は「日も」の「も」が好きで、味わいを濁らせる。

「日暮れたり大路に一人踊哉」これなら罪は軽い。

「一人出て大路に踊る日暮哉」やけくそでも一人で踊っちまう、そんな日暮れって、どんな日暮れだろう?職質もありか。

 

煤過へ札引ぱりぬ御門哉 文政7    すすすぎへ ふだひっぱりぬ ごもんかな

一茶は確信犯だな。

 

打消し助動詞「ず」の連体形「ぬ」、切れない。

黒塚の婆ゝとも見へぬ紙子哉 文化10        

「見へぬ」は誤りで、「見え」+「ず」の連体形「ぬ」が正しい。でももしかしたら、柏原の訛が「え」「へ」を曖昧にしているのかもしれない。それに、「報ゆ」が鎌倉以降は「報ふ」と使われ出しているので、「見ゆ」が「見ふ」とも使われた可能性が無いワケじゃない。※どっちも調べていないので想像

で、この「ぬ」をどう考えるかだが、1.この婆はいつも「紙子」を着ているので「黒塚の婆」とワカルのだが、この時はいつもの紙子とは違う「紙子」を着ているので、「黒塚の婆」とはワカランかった。あるいは、2.いつもは上品なお召し物なのに、この時は庶民の「紙子」を着ていらっしゃるので、「黒塚の婆」とは思えなかった。「黒塚の婆」に共通了解があれば、どうと言うことのない句なのだが。

文化10年は帰郷に備えて一茶が門人を増やそうとしていた時期なので、その句座を囲んだ人々だけで、爆笑したのかも。

 

さきほどの「見ゆ」あるいは「見ふ」だが、『一茶の俳句データベース』には「見へぬ」「見えぬ」と混乱する句が40もある。

かすむ日に窓さへ見へぬ獄屋哉 文化3 かすむひに まどさえみえぬ ひとやかな

伝馬町牢屋敷には窓は無かったようだが、地方へ行けば事情は異なるのかも。

 

火の吹けぬ門とは見へぬぼたん哉 文政1    ひのふけぬ かどとはみえぬ ぼたんかな

「火の吹けぬ門」がワカラナイが、通常は「ぼたん」がそのように見えるなら打消しの「ぬ」。「火を吹く」門付け芸人が廻って来た、とか有りか?

とも書く、誤記の「見へぬ」がデータベースには数句あるとは驚いた。

「見る」上一段の意思を除外した「見ゆ」下二段は、見ようとしたのではなく、その情景が自然に目に入って来ているワケで、この使用が圧倒的に多いが、

大根を抱き碧空を見てゆけり 飯田龍太

「大根の白」「碧空の青」のコントラストは好ましいが、惹かれるのは「見てゆけり」だ。なにかの強い意思が、この二つの異なる世界を「見」させているのだ。ここから物語が始まる。

 

悪土の国とも見えぬ蛍哉 文化7    わるつちの くにともみえぬ ほたるかな

「悪土」は「あくど」と読むが、訓読みなら「あくつち」「わろつち」であるべきかも。ふる里を「不毛の土地」などと言ったのか、ひねくれ一茶。

けかちとは見えぬ野づらや秋の露 文政8    けかちとは みえぬのづらや あきのつゆ

「けかち」は「飢渇」と書き、飢饉を意味する。天保の大飢饉にはまだ間があるんだが。

 

この「秋の露」だが、季語としてはすでに「露」が定着している。

今日よりや書付消さん笠の露 松尾芭蕉

奥の細道の曽良との別れでは、「露」と儚いモノを出している。

それを一茶のは「秋の露」とは大胆な、と思ったが11句も作っている。

人は旅見なれし草や秋の露 文化1 ひとはたび みなれしくさや あきのつゆ

「見なれし草」は「秋の草」の秋尽くし。「枯野を駆け廻(めぐ)る」旅か。

痩畠もそれ相応に秋の露 文化11  やせはたも それそうおうに あきのつゆ

行秋や畠の稲も秋の露 文政3 ゆくあきや はたけのいねも あきのつゆ

また「も」だ、「の」でいい。

葉から葉に転へうつるや秋の露 文政4 はからはに ころびうつるや あきのつゆ

「へう」となっているが、一茶の書きなぐる崩し字の癖で、「お」ではないか。「転おつるや」で「ころびおつるや」。

「葉から葉に転ひおちるや秋の露」じっと露を見つめる一茶が目に浮かぶ。

 

助動詞「ず」は次回に。

 

(続く)