新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月
を基礎資料としている。
なむ芭蕉まづ綿子にはありつきぬ 文化12年
「なむ芭蕉」は「南無芭蕉」で、「南無阿弥陀仏」の「なむ」。この「なむ」はヒンディー語「ナマステ」の「ナム」で、「ナマス」は堅苦しく言えば「帰依する」で「テ」が「あなた」なので「あなたに感謝します」らしいが、一般的には「おはよう」「こんにちは」などの挨拶言葉らしい。「なむ芭蕉」も厳格に言えば「芭蕉に感謝する」だが、もっと軽い。「芭蕉さんありがとよ!」程度。しかし、前出の
芭蕉塚まづをがむなり初布子 文化11年
を読めば、「まづ」お参りするのは芭蕉塚で、それなりに必死ではある。
で、『綿子』は今なら綿入りの「ちゃんちゃんこ」だが、被るタイプもあったらしい。とにかくこの冬もなんとか食うことができて綿子も手に入って、それもこれも全部芭蕉が貞門談林と訣別して蕉風を確立してくれたからと感謝している。ただ「まづ綿子には」なので、欲張り一茶は他にも狙っている欲しいものがあるのだろう。江戸暮らしと比べれば、相当に厳しい冬がやってくるのだから。
国貞
芭蕉様の臑をかじつて夕涼み 文化10年
これも芭蕉への感謝だが、職業として俳諧の道に身を置けば、それなりに厳しい世界なので、きっと一茶をして迷ったり壁にぶつかったりすることもあったのだろう。「スネを囓る」とはいくらか自嘲も含まれている。「芭蕉様」の「様」も拗ね者のわざとらしさ満載。
まぁそれはそれとして、気分良く夕涼みをしている。
広重四条河原
こんにやくにかからせ給へ初時雨 文化3年
芭蕉が蒟蒻好きだったことを踏まえればなんとかワカル。「かからせ給ふ」の「かからせ」は「頼らせて」だろうか。そこに「給ふ」だから、句意は「銭もないので、芭蕉翁のお好きだった蒟蒻のお世話に、私めもならせて下さいませ」か、外は時雨で冷え始めている。
ばせを忌や丸こんにやくの名所にて 文化2年
ばせを忌や時雨所の御こんにやく 文化4年
一茶は勉強家で多様な典籍に通じてもいたが、芭蕉は恩人でさえある。
旅人と我名よばれん初しぐれ 芭蕉 笈の小文
「つゐに無能無芸にして唯此一筋に繋る」笈の小文の一節、一筋に俳諧の道を歩んできた。一茶も同じ心持ちだろう。
旅の皺御覧候へばせを仏 文政7年
芭蕉の像でもあったのだろうか。門人手当に漂泊する一茶は旅で日焼けをするワケで、結果皺深くなった顔を「御覧候へ」と丁寧に「ごらんあそばせ!」と顔を突き出している。一茶の悪ふざけとは思えないし、芭蕉との精神的な距離の近さ故だろう。
ばせを忌と申すも只一人かな 文政8年
「只」は「たった」。葛飾派を追放され、根無し草となって、故郷に帰った一茶に、俳諧の同志は居なかった。見渡せば弟子ばかりの孤独感、ボスはつらいよ。
それでも、文化8年1811年の全国俳諧師番付では、一茶は東方最上段に名前が載っている。これは江戸俳壇の重鎮井上成美、鈴木道彦らと肩を並べる高評価である。葛飾派を出てからは、夏目成美の庇護下に特定の流派には所属しない独立系であったにも拘わらずだ。文化年間には広く知られるようになっていたらしい。
ばせを忌や今年もまめで旅虱 文政年中
「まめで」は「勤勉にも」旅から旅へ俳諧行脚を重ねた。旅先で出会うのは門人維持手入れや新規顧客の獲得の商売ツアーで、薬売りが薬を売るように、一茶は俳句を売り歩いたことだろう。多分最高の尊敬をしている芭蕉の「忌」に、世俗の「虱」を持って来る対比も、個人的には一茶調と思える。
我が住処近くにも芭蕉句碑はないかとふと調べたら、隣町の戸田市上戸田の氷川神社に、文政7年に荒川「戸田の渡し」の羽黒山権現に建立されたものが移建されていた。
涼しさやほの三日月の羽黒山 はせを
一茶は芭蕉を敬っているのに、蕪村は表だっては出てこない。しかし
ふるさとやよるもさわるも茨の花 文化7年
と詠った時には、次の蕪村の句を思い浮かべたのではないか。
愁ひつつ岡にのぼれば花いばら 蕪村
(続く)



