水無月に湖埋み和津波 素手男 

みなつきにみつうみうつみにきつなみ

或る日、琵琶湖の活断層が動いた際には。

和津波にぎつなみ;穏やかな津波

 

 

最後に、選者のコメント欄の一節を。

いはく、『例えば、「水無月」は、陰暦六月の季語ではありますが、陽暦では七月頃に当たります。「炎暑の太陽によって、水が無くなる月=水無月」とも言われています』とあるが、すこしムリかも。

 

まず、「水無月」漢字表記の「無」は接頭語で、下に続く文字の(意味内容の)不存在を示している。接頭語であるから、或る文字の下に置かれて、上の文字に働きかけることはない。虚無感、虚無的等と使われる時は「虚無」に「感」「的」が付いたので、「無感が虚しい」ではない。

 

またこの漢字には無理(むり)無事(ぶじ)などと音が二種類あるが、「な」とは読まない。

万葉仮名の韻尾の省略である略音(漢字の字音の一部を用いる)には安(あ)印(い)、騰(と)等があるが、「な」の音には那、男、奈、南、寧、難、七、名、魚、菜が当てられ、「無」は見当たらない。

つまり、「水無月」を「み-な-づき」と読んだ経験はないのだ。

 

水無月の異名に「水張月」「水月」などもあるので、「水月」と書いて「みなづき」と読む態度が真っ当だと考えている。例えば、嘗て木の実を粉にして食していた頃、挽いた大豆は黄色い粉になるので、「きなこ」「黄な粉」と呼んだ。漢字では「黄粉」と「な」は省かれる。同じように「水門」は「み-な-と」と読んで「港」だし、「眼交」は「ま-な-かひ」で、「な」の音は表記されないまま読む。

これらを「黄無粉」「水無門」「眼無交」と書いたら、その異様さがすぐワカル。

 

山上憶良 万葉集に

瓜食めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲はゆ  いづくより来りしものそ 眼交にもとなかかりて 安眠し寝(な)さぬ  

と有名な歌があるが、万葉仮名では「眼交」を「麻奈迦比」と書き、「な」の音に「」を当てている。

麻奈迦比に倣えば水無月は「水奈月」と書くべきであった。それをいつの時代にか、ちょいと気の利くヤツが「無」を当てて、世間に受け入れられてしまい、「水の月」「水張り月」が「水の無い月」へと二次的に意味転換されてしまった。「田水を抜いて乾かす月」と言い張る向きもあるが、往生際が悪いと言うものだ。

 

「気の利くヤツ」はそこら中に居る。例えば法隆寺百済観音の逸話に、明治新政府の廃仏毀釈政策で経済的に困窮したお寺が出開帳に出した時の事件がある。展示に際して、現場の人間が寺の許可も取らずに、商売になりやすいと考えたか、「酒買観音さけかひかんのん」と命名紹介した。左手にお持ちの水瓶を「酒瓶」としたのだ。現場の人間の浅慮が歴史を歪めることは時にある。

 

結論として、「水無月」を「水の無い月」などと言ってはイカン。風生歳時記「水無月」の項には『陰暦六月の異称。暑い盛りで、水涸れ尽くす意味とも言うが、定かでない』と逃げ腰ながら、業界の通念に疑を挟んでいる。

 

ついでに神無月も「神の月」で「神奈月」とすべきで、例えば神奈川県の由来は「神の川」だ。

 

人麻呂の歌日並皇子尊殯宮之時柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]に

「 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に」の一節があるが、万葉仮名表記では「天河原尓 八百萬 千萬神之 神集 々座而 神分 々之時尓」と「神」の文字が使われている。

 

「かんながら神随kannagara」は古形「かむながらkamnagara」から転換しているが、「本hon」→「本部hommbu」の「n→m」転換の逆方向が起きるかどうかは知らない。

 

さらに「無」が一人歩きすれば、出雲の神在月へと進化してしまう。しかし、伊勢神宮の天照大神はそもそも出雲へ出向かないし、香取神宮、鹿島神宮もそう。諏訪大社など大社を名乗る神社には他にも出向かない神も居る。しかし、式内社である我が地元の武蔵一宮氷川神社は授与品には氷川大社と記しているが、御祭神の大己貴命はきっと行く。

そんなワケで、出雲では「神在祭」と神事にもなっているし、「神在月」同様に季語化もしているが、いがかなものか

 

結論;「水無月」は「水の無い月」ではなく、その真逆の「水の(在る)月」と私は考えている。

 

追記;石田波郷が「俳句は文学ではない」と若かりし頃に言い放った時、その真意は不明だが、「俳句は言葉遊びだ」と言いたかったのではないか。もちろん、波郷の生涯を思えば、ある時点で「境涯俳句」と呼ばれるような「フィクション嫌い」へと、その意味合いを変えていくのは当然だ。

バスを待ち大路の春を疑はず    石田波郷

愛媛県から上京して二十歳の頃、東京は神田で文明の象徴のような「バス」を待っている。この希望に満ちた若者に誰もが懐かしさや、後悔や、諸々二重写しにすることだろう。これを「文学ではない」と言う時、俳句は、貞門談林へと何度目かの祖先返りをして、笑点大喜利と同類の言葉遊びになってしまう。そっちも割と好きではあるけれど。

 

以上、俳句ポスト365類想選外編終了。