新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月

を基礎資料としている。

 

むまさうな雪がふうはりふはりかな 文化10年

文化11年1814年には柏原に住み着くので、その前年の冬、年が明ければ春。雪国の一位人には厄介者の雪が、一茶にはまだ楽しい興味の対象だったし、雪を「むまさうな」と詩人らしい感覚で捉えている。

 

「ふうはりふはり」は前出の惟然の句

水さつと鳥はふはふはふうはふは 惟然

からの発想ではあっても、「ふうはりふはり」と畳みかけるリズムが心地よい。このような擬態語を「かな」で受ける句風は一茶ならではだろう。

 

夏目成美への「句稿消息」にもこの句を書いているが、それに対して「惟然坊が洒落におち入らん事をおそるゝなり」と、一茶の擬態語、擬声語、口語俗語への傾倒を危惧している。

一茶がまず手本とした蕉風俳諧は、この頃には衰退しており、ポピュリズムの波に飲み込まれようとしていた。俳諧賭博は享保年間には幕府によって禁止されるが、前句付は元禄(1688~1704)時代から庶民の間に流行し、やがて川柳へと展開していく。

 

※一茶がパクったか

大根引大根で道を教へけり 一茶 文化11年1814年

ひんぬいた大根で道をおしへられ 柳多留再録

柳多留は明和2年1765年に初版刊行

【江戸名所図会】大根

 

江戸時代となって戦争が無くなり、経済的にも豊かになると、その豊かさの中で生まれ育つ人々が増え、享楽至上の世界に落ち込んでしまうのは、歴史が教えるところである。

学生や若者が、政治状況を憂い政治行動を起こした後には大繁栄がやってくるが、まもなく衰退し、日本でいえば失われた30年に苦しむことになる。それは革命前夜でもあるのだが、天皇制が維持されていれば大きな混乱は無い。

 

「辺地に引込み候へば彼の流行とやらに遅れはせぬかと、それのみ用心仕り候」と、一茶は宗匠の地位からの陥落をおおいに恐れていた。川柳に題材を得て、いわば俳句に仕立て直した焦りは十分にあっったろう。俳句は川柳程には庶民の娯楽たりえなかったのだ。

 

学んだ蕉風から、個性つまりは特殊を打ち出す手段の一つが、奇抜さを示すための擬態語であり、口語であり、それらを今は一茶調と呼べる。

 

 

さて、年を越して文化11年がやって来るのだが、この文化11年2月21日(1814年4月11日)、待望の家屋分割が完了する。ごね得にも、義弟からはかなりの金額を逸失利益として賠償させ、家や土地も手に入れている。

ややこしい一茶ではあるが、この正月は一茶なりにほっと安堵した風な、しみじみととした句、それも古郷の香一杯の句を作っている。

あつさりと春は来にけり浅黄空 文化11年

諸々片付いてみれば、何事も無かったように「あつさりと」新年はやってきた。

雪とけて村いつぱいの子供かな 文化11年

自分の家が手に入れば、見える景色も格別なのだろう。

陽炎や藁で足拭く這入口 文化11年

子供の頃に自分もそうやって足を拭いたと感慨に耽る。思出には「陽炎」もありか。

 

十ばかり鍋うつむける雪解かな 文化11年

雪囲いの中での閉鎖的な暮らしに、鍋釜は榾火や藁火で煤けきっている。雪解けの時期になると、それを洗い落とし、日向に干すのだそうだ。「十ばかり」がよく効いて、その家は貧農ではないし、鍋毎に使い分けされるほどの豊かな農家が想像される。一茶の結婚は文化11年4月11日1814年5月30日なので、この春はまだ独り身で、所有する鍋も一つか二つであろう。「ずいぶんあるなぁ」と思ったかどうかはワカラナイが、江戸と違って、古郷では十の鍋は普通の農家なのかもしれない。

「雪解」は「雪解け」だが、一茶の心の中にも「雪解け」がやって来たのだろう。頑なな心も緩み、ひねくれた心も元に戻りだしたか。

 

新しい年に一茶はさっそく結婚するが、24歳下の働き者を嫁にと世話を焼いてくれる人がいたのは、十年以上もめたのに、さすが古郷だ。しかし、いわばよそ者を独り身で放って置くと、共同作業には参加しないままの遊民暮らしが目障りだったのだろう。村か集落の運営に支障をきたすワケだし。

 

(続く)