新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月
を基礎資料としている。
文化 享和4年2月11日1804年3月22日 改元
文政 文化15年4月22日1818年5月26日 改元
今朝の春四十九ぢゃものこれも春 文化8年
「これも春」とは、まだいささかの疲労感が残ったか。
「江戸砂子」は江戸時代中期の1732年(享保17年)に刊行された江戸の地誌
月花や四十九年のむだあるき 文化8年
一茶の嘆息は常態化しているようだ。文化7年1810年に花嬌が亡くなったことが、一茶の心身に乱れをもたらす最大の要因と思われる。
「月花や」とは、連歌「月の定座」「花の定座」とか、いわゆる季語の発句作りにうつつを抜かしここまで生きてきた事への詠嘆だ。そう読めば、この句は無季と言える。
それにしても、喪失感からの「無駄歩き」とは純情な。
その代わりと言えるかどうかはワカラナイが、この緒頃から一茶調はむしろ伸び伸びとして自在な句が生まれ出した、と思う。
三日月やふはりと梅に鶯が 文化8年
鶯が来るのだから、日没後ではなく昼の三日月だ。太陽の東側にあるこの月は水色の空に薄く白く見える。その繊細な光の下に淡く梅の芳香が広がり、そこへなんと鶯が舞い降りた。鶯はかなり素早く移動するので、一茶の視線が捕らえきれたとすれば、ほんまかいなと訊いてみたい。
尾羽が長が過ぎるようだし、広重は鶯を見たことがないかも。翼も好きになれないし、花も雑だし、ホントに広重か?
俳句的には実景でなくても気持ちの良い句だし、一茶は柔らかい物に執着する性格だし。
ふやふやの餅につかるる草葉かな 文化7年
惟然坊に擬す
むまそうな雪がふうはりふはりかな 文化10年
水さつと鳥はふはふはふうはふは 惟然
前の「ふはり」を「かな」で受ける一茶調が好きだし、「ふうはりふはり」とは名調子。惟然の童歌のようなリズムが、一茶に影響を与えたのだろう。「ふう」は「風」を「ふう」と読ませての、風に舞う姿とも思える。
※広瀬惟然(いぜん・いねん) 慶安元年1648年?~宝永8年2月9日(1711年3月27日)
一茶は宝暦13年1763年生まれなので、文献的にしか知らない先達、俳人。
惟然は芭蕉が「笈の小文」の旅を終えて岐阜に逗留した折に直接会い、この時39歳にもかかわらず妻子を捨てて出家し、芭蕉に師事して門下となった。芭蕉男色説が正しいとすれば、惟然はここで目覚めた可能性がある。芭蕉没後は「奥の細道」の逆順路の旅をしたり、情が濃すぎる。さらに後になって惟然は、芭蕉の発句を和賛に仕立てた「風羅念仏」をひっさげて、芭蕉の追善行脚をしてもいる。尋常ではない。
作品は一茶のハマった擬態語や口語調を得意とした。
水鳥やむかふの岸へつういつうい 惟然
きりぎりすさあとらまへたはあとんた 惟然
「さあ」「はあ」のリズムが、してやったりから、がっかりへと心地よい。
真綿むく匂ひや里のはいり口 惟然
季語は「新真綿」。「糸取」から、できたての糸は「新糸」、できたての真綿が「新真綿」。
日本では春、夏、秋と年3回真綿を採るが、春蚕の時期は田植えと重って、農家は繁忙期となる。
繭を重曹入りの湯で煮ていくと、独特の匂いがするそうだ。フレーバーと呼ばれるほどの心地よい香ならいいが、そうではないので、換気が重要らしい。
https://toyotomi-kyodo-museum.note.jp/n/n4d854ae68740
そこで、「真綿むく」だが、「真綿」を採ることを「剥く」と言うようのかな、ワカラン。それでも、村中にその匂いが花の雲の如く漂っている気分は伝わる。「里のはいり口」なので、惟然の旅の途中の村か。
※
蚕飼するひとは古代のすがた哉 曽良
面白いので、解説は以下で
俳句のいさらゐ ▧▽▧ 松尾芭蕉『奥の細道』その五十一。曽良「蚕飼するひとは古代のすがた哉」|瀬戸風 凪
赤馬の鼻で吹きけり雀の子 文化8年
「雀の子」はいつも迷うが、「馬っこ」の「子」で幼い子を指すとは限らないのだが、この句に限っては、巣から落ちた子雀がイメージされる。馬小屋ではなく、軒先の石かなんぞに繋がれた馬の目の前に、どさっと子雀が落ちてきた。気づいた馬は「あらら」と言わんばかりに顔を近づけ、鼻息荒々しく、好奇心に満ちた大きな目で雀を見る馬の心情が楽しい。
※育った子雀が巣立ち直前の動画を見たら、巣から落ちてバタバタするようなことがありそうな。「雀の子」は「雀ツ子」ではなく、「子雀」も有りのようだ。
https://www.instagram.com/reels/DYjUHcKRRto/
子雀は運動不足で肥り気味だが、小さな生き物を見る一茶はいつもやさしい。
夕暮や親なし雀何と鳴く 文化7年
夕暮や雀のまま子松に鳴く 文化8年
大勢の子に疲れたる雀かな 文化8年
飛ばない子雀は肥っている
「親なし雀」は空想なりに一茶自身だし、「雀のまま子」とは妄想すぎだが、親に捨てられた一茶には共感できたのだろう。
「大勢の子」は雀を取り囲んではやし立てて遊ぶ「子供達」で、その輪の中に置かれた雀は振る舞い方も知らず、鳴き疲れ、動き疲れ、家に帰りたいが帰り道も分からない、ここでも一茶の表象としての雀。
春立つや菰もかぶらず五十年 文化9年
文化8年の暮れは、12月22日以降は下総の布川で過ごし、年を越した。明けてからは何度か行脚をこなし、5月には夏目成美方で一日百句を詠むほどのタフネス。
その後、柏原へも2度行き、11月24日には柏原の借家に入り、そのまま年を越している。
その年頭の句で、「春立つ」日に、知命の感慨を述べている。「菰もかぶらず」は確かにそうだが、幸運な人生を噛みしめているワケではあるまい。自立できずに居る自分は、強力なパトロンを失い、不安に取憑かれているのだ。「菰はかぶらず」と言い換えて欲しいくらいだ。
おのれやれ今や五十の花の春 文化9年
「おのれやれ」とは自分自身を励ます言葉で、「なにくそ」気分である。一茶は「菰被り」に限りなく近い自分を叱咤する。その勢いが相続問題に向かうので、周囲はたまったもんじゃない。
菰を着て誰人います花の春 芭蕉
「放下して栖を去り、腰にたゞ百銭を貯へて、拄杖一鉢に命を結ぶ。なし得たり、風情終に菰をかぶらんとは」栖去之弁
拄杖一鉢(しゆぢやういちはつ)とは、僧侶の杖と托鉢の鉄鉢を言い、転じて乞食行脚の意味である。もちろん芭蕉は乞食になったワケじゃないが、49歳で江戸の連歌俳諧との訣別を宣言した。世捨て宣言だから、「菰を被る」人生も良かろうと芭蕉は決意した。一茶は故郷に「自分の取り分」があるから、「菰」なんざ考えてもいない。
(続く)





