新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月

を基礎資料としている。

 

文化 享和4年2月11日1804年3月22日 改元

文政 文化15年4月22日1818年5月26日 改元

 

文化7年十月十日頃、一茶が利根川に添ってぬかるみを歩いていたら、口取る人も居ないままに稲束を背負う馬が三、四頭「とろとろ」やって来た。どうしたものかと迷っていると、先頭の馬が「がぶがぶ」泥の中へ入って自分を避けて行き、続く馬も同じように一茶を避けた後、元の道へもどり「ゆさゆさ」と急ぎ去って行った。

 

頭陀袋一つの自分が道を空けずに、重い荷を背負った馬が片脇に寄るのは、馬にしてみれば自分は無法者にみえたろう、と一茶は思った。

 

 

さらにしばらく土手で休んでいると、馬たちは戻って来て、草を食いながら佇んでいる。主が刈った稲穂を積み上げて「どうどう」とか追い立てると、馬は了解して家の方へ歩いて行った。聞けば、正午までに七度もこんな風にするとか。

TVニニュースでも時々見かける「無職」とか「職業不詳」とかの人の、生きる糧の入手方法がワカラン。電話して「何してる?」と聞けばいつも、「団欒」と答える地主さんのお嬢さんは存じ上げているけれど。

 

七番日記に「おのれ人には常の産となすべき事も知らず、人の情にてながらふるは、物いはぬ畜類に恥かしき境界なり」としたためた後

散る木の葉渡世念仏通りけり 文化7年

 

遊民一茶も真面目に働く馬を間近に見ては、ショックだったのだろう。淡々と書き残しているが、相続問題で権利の主張ばかりする自分に、なにがしか迷いが生じたか。

ものいはぬ四方のけだものすらだにも哀れなるかな親の子を思ふ 源実朝


牛も働いた。百人一首姥がゑとき(百人一首うばが絵解)

侘びぬれば今はた同じ難波なるみをつくしても逢はむとぞ思ふ 元良親王

※宇多院后褒子との不倫発覚の時に詠んだ。何かと危ない噂の陽成帝の第一皇子だが、次は光孝帝の世となり、自分は天皇になりそこない、やけっぱちもあったかも。

ただ絵解きの内容は、我が実力ではワカラナイ。源氏かなとも思うが、からっきし。

 

で、この句の「念仏」だが、浄土教では阿弥陀如来の本願にすがるために「南無阿弥陀仏」と唱えるが、「渡世念仏」とは処世術として唱えているだけとの一茶の軽蔑心からの、あるいは信仰上の敵愾心からの言葉だろう。例えば、団扇太鼓を叩きながら「南無妙法蓮華経」と唱えながら通った一団に刺激されたりとか。

鎌倉開経750年唱題行脚

 

下五「通りけり」と詠嘆しているのは、言い過ぎたかと反省もあったからか。信仰上の問題を離れ、主題は「木の葉」である。風が吹けばふらふらと散り出す木の葉は、「常の産となすべき事も知ら」ない自分そのものだ。枝を離れ地に積もるまでの漂うだけの人生に、たじろいでいる。なにかと生きづらそうな一茶ではある。

 

「文化句帖拾遺」には

口すぎの念仏通る小春かな

と推敲されている。「口すぎ」とは「生計を立てること」なのだが、実はこれでもあまり好きではないな。「渡世」も「口すぎ」も切り口を変えただけで、一茶の手掛かりのない生き様から発した言葉だから、ひがみ根性とも言える。

上五「口すぎの」の「の」を働かせて「小春」らしい優しい印象にしたワケは、「散る木の葉」と剛速球に続けて「渡世念仏」と言い放っては、感情に負けて俳句の趣が悪いと考えたからだろう。

  

                      

 

行く年や空の青さに守谷まで 文化7年

色々あった年だが、「空の青さ」に誘われるように行脚へ出て、西林寺の親しい鶴老と会い、晴々としている。変に清々しい句だ。

 

念仏を唱える一行に苛立っている人が、「味方」に会った結果、それが収まったのかもしれない。

あるいは、歳末は掛け取りに追われるが、巡回した結果とりあえず稼ぎはあったし、支払いの目途がついたのかもしれない。落語の「掛け取り」を聞くと、状況を面白く知ることができる。大晦日さえ越してしまえば、次の回収はお盆だから、お互いに必死なのだ。落語「掛け取り」は参考になるし面白いが、二代目小南師匠の「餅つき」も歳末の庶民の暮らしを垣間見られて最高だった、絶妙の「餅つき」で。

 

行く年や身はならはしの古草履 文化7年

同じく西林寺で詠んだ。「ならはし」とは習慣のようなことらしいが、「草鞋」の簡易版が「草履」とすれば、その「古」には「古日記」のような、例えば歩き回った記憶とか、なにかしら思い入れがあるのだろうか。

 

秋立つや身はならはしのよその窓 享和3年

秋立つや身はならはしの人の家 文化元年

一茶は「身はならはしの」が気に入っていたようだが、使い回しというより、このセンテンスを物にしようと試しているように思える。「よその窓」「人の家」という感じなので、「古草履」にも「貧乏の象徴」とか複雑な感情ありか。

 

 

文化7年は一茶の心の内を旅するようで興味深っかった。

年が明けると一茶は49歳である。

 

 

※一茶の年越しの一例として掲げておく。「おらが春」は長女さとの早すぎる死(6月)を契機に書かきはじめられたが、文政2年1819年一年間の俳句と俳文で、最後の句に

ともかくもあなたまかせの年の暮れ 

がある。積極的に「年を越す」というより、どこか投げやりな気配だ。「あなた」は誰なのか、語られていないが、最愛の幼児を死なせてしまった一茶が「あなたまかせ」と頼ったのは、阿弥陀如来かその子の母である妻菊かしかないが、私は菊だと思う。社交性もあるし、気丈な女性なのだ。いつも以上にぐでっとダレてしまった一茶を励ましつつ、家庭を維持した人。最終的に三男一女を儲けるが、どの子も2歳まで育たなかった。一茶も卒中に苦しむが、妻菊は文政6年(5月12日)1823年(6月20日)に若くして亡くなった。一茶59歳であった。

 

(続く)