小林一茶番外編 享和
一茶が古郷を久々に訪ねた1801年は享和元年で、ここから化政文化前の4年間が享和時代になります。
(朝の富士山に残雪)
この時代は親王宣下を受けぬまま天皇になられた光格天皇の御代で、ここから今上陛下まで男系の皇位継承が維持されています。
このころ、例えば享和2年1805年には、江戸春秋庵二世常世田長翠が浄徳寺河道の勧めでその門前に胡床庵を営み始め、64歳で亡くなるまで山形県酒田に永住しました。江戸で幅をきかす宗匠俳諧、月並俳諧から逃れて、先代と同じに蕉風再興をはかったのです。
初代の春秋庵は加舎白雄で、与謝蕪村、大島蓼太などと中興五傑及び天明の六俳客の一人として知られています。白雄は天明8年1788年芭蕉百回忌句会を催し、蕉風復古者として世間に認知された俳諧師でした。
(彩湖・幸魂大橋)
暑き日を海に入れたり最上川 芭蕉
元禄元年1688年から元禄17年(宝永元年)1704年にかけての元禄文化では、芭蕉の大活躍によって、貞門談林の小難しい知識や理屈とは訣別し、自然や人間の情趣を素直に表現する発句が俳諧として世の中に広まりました。
享和年間は、一茶が葛飾派を追い出されて収入が途絶え、房総のパトロンからの援助で暮らし始めた頃です。この時代は町人文化爛熟の文化文政時代への前段階で、俳諧においては月並俳諧の流行が顕著になり、弟子を取って銭を稼ぐ宗匠による全国的なネットワークが形成されていきます。宗匠が月例の句会を主催し、参加者が会費を納めて点火(添削や評価)を受ける仕掛けが定着するのです。地方の有力な俳諧師(俳諧好き)が自身の連を率い、中央の宗匠と手紙や句帖を通じて交流するピラミッドです。各地に文芸的コミュニティが形成され、普及という面ではお手柄ですが、その反動のポピュリズムへと宿命的に堕していきます。一茶も似たようなことをするのですが、俳壇の離れ猿の如くで、生活は篤志家に支えられるだけの不安定な状態に陥りました。
夕桜家ある人はとく帰る 享和3年
41歳の一茶はまさに「家無き人」でしたし、ふと内面からの言葉を漏らすこともありました。精神の緊張感からの格調高い詠みっぷりです。
春の暮家路に近き人ばかり 蕪村
人混みに入ると、なおさら孤独を実感するのは今も昔も同じ。職を失う辛さは、出勤すると見せかけて公園で弁当を食べる人にしかワカラナイ。
(彩湖脇の沼)
また、享和年間には上方から江戸へと文化の中心が移行し始めるワケですが、それにドライブをかけたのは江戸町人たちの強まる経済力でした。食う為だけの暮らしから、滑稽本や洒落本などの戯作、浮世絵、歌舞伎といった庶民の遊びが間もなく花開きます。
上方の元禄文化の洗練に対してより大衆的でタフな文化の誕生ですが、それには経済と並んで木版印刷や流通網の発達などの支えが大きかったと思われます。絵入り本や俳諧の句集、歳時記などが人々の手に届き易くなりました。一茶も苦労はありましたが、ある意味で時流に乗った俳諧師ではありました。
(夜は居酒屋宴会)
既に述べました江戸の宗匠常世田長翠や其日庵素丸などが地方に行脚して門人を増やし、反月並の強固なネットワークが出来上がりますが、松尾芭蕉の蕉風をベースにしつつもそれを見直し(不易流行;新しみを求めてたえず変化する流行性にこそ、永遠に変わることのない不易の本質がある)、日常の生活感情をより平易に詠む作風が流行するのは、広がる裾野からの要求でもあったのでしょう。
(キーボーディストと箏奏者と)
享和4年1804年に享和が終わり文化となりますが、その文化11年1814年一茶は52歳にして遺産相続に片が付き、柏原に住まうことを決め、縁あって24歳下!の「菊」との結婚が叶いました。この頃には北信濃において多くの弟子を得ていますが、システムとしては、食い詰めた頃の習い性なのでしょうか、一茶自身が巡回指導をしていました。
さびしさに飯を食ふなり秋の風 文政8年
菊の病没後に文政7年1824年再婚しますが3ヶ月で離縁してしまいます。三度目の結婚は1827年文政10年ですから、その間の一人暮らしの時に作ったようです。中風の発作にも見舞われ、心底淋しかったのでしょう。「さびしさ」から「飯を食ふ」へと、いわば聖から俗への転換が一茶らしい句だと思います。
少し前になりますが、文化8年1811年の俳諧師の番付では、一茶はすでに東方最上段に掲載され、江戸俳壇を代表する俳人井上成美、鈴木道彦らと同列に高い評価を得ています。
また一茶は巡回するばかりではなく、一茶社中として添削や来客も増えるのですが、ボスの没後は一茶調は廃れていまいます。
臨終に際して一茶は門人に、「一茶を真似るな」と仰ったとかの都市伝説があります。
(酒まで徒歩2km、途中の延命寺さん) 合掌
※するなと言われればしたくなるのが人情ってもんで
梅雨晴間うき雲ちらりほらりかな あき坊
擬態語を「かな」で受けるところが一茶調の特徴の一つ、しかし、「浮き雲」「憂き雲」とは月並調にも程がある。
(続く)





