新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月

を基礎資料としている。

 

享和 寛政13年2月5日1801年3月19日 改元

 

 

享和元年1801年一茶39歳の3月に柏原へ帰郷した。4月23日、父弥五兵衛がにわかに傷寒に罹り、一茶の必死の看病の甲斐無く、5月21日他界した。傷寒(しやうかん)は激しい熱病で、現代中国語では腸チフスtyphoid feverを指すらしい。

 

涼めよとゆるしの出たり門の月 享和元年5月4日

5月2日には父の病状が急に悪化し、ばたばたするが、4日には小康を得た。意識の回復した父が一茶に「涼んでおいで」と気を遣ったのだ。ありがたき親心なり。言葉に甘えて外に出ると、「門の月」が煌々と照っている。そろそろ梅雨のころに明るく輝く月を見て、一茶は一安心するよりも、この先の様々な段取りを想念したのではなかろうか。

 

足元へいつ来たりしよ蝸牛 享和元年5月5日

翌5日も落ち着いていた。そこでの一句である。張り詰めた気分のなかで、ふと蝸牛に気づいた。遅い足取りで何処へ行くつもりかはワカラナイが、確固たる生の意思がそこにはある。この対比も「俳句」の重要な要素だ。「いつ来たりしよ」と呼びかけの言葉遣いは一茶調である。

 

寝姿の蠅追ふも今日が限りかな 享和元年5月20日

5月10日には梨を求めて善光寺辺りまで行き、13日には酒を飲ませるかどうかで後添つまり継母ともめ、砂糖を買う買わないでまたもめ、結局お流れになってしまった。父の臨終が近づいている。しかし、妙に静かなのは一茶にある諦めのせいだろうか。

江戸へ出る頃まで見ていた父は屈強で健康だったが、今こうして病み伏せる父はすっかり異質な存在として自分の前にある。間もなく「存在」そのものが崩壊する。その父の看病をしながら、親孝行の真似事に「蠅を追う」のである。そのささやかな親孝行さえもう終わりの時間が近づいている。切ないな。

 

 

夜夜にかまけられたる蚤蚊かな 享和元年5月20日

「夜な夜なに」と、近くで看病を始めるその毎晩、蚤や蚊に気を取られてしまって、十分な看病ができただろうか、と。この句の後に、通夜の様子

「昼は人々よりつどひ、力を添え、もがたりなどに、しばしかなしびを忘るゝに似たり。夜は人々も大かたにもどりて、ともしびの明きにつけても、病床の辺のなつかしく、あからさまに寝給ひし父の目覚むるを待つ心地して、なやみ給ふ皃(かほ)は目をはなれず、よび声は耳の底にのこりて、まどろめば夢に見え、さむれば俤に立添う。」翻って自分も親の通夜は厳しいものがあった、もっと何かしてあげられたんじゃないだろうかなどと。自分を叱ってくれたり、生命力に溢れる男盛りの父を見ているので、「俤に立添う」なども涙を誘う。

 

五月二十日一茶の父永眠。

 

(23日は)

「暁、灰よせなりとて、おのおの卯木の箸折りて、仇し野にむかふ。けさは俤のけぶりさへ消えて、只誠なるは、松風の凄々としてふくのみなり。三月のゆふべは逢うて祝い(よろこび)の盃をいたゞく。けさの暁は別れかなしき白骨を拾ふ」とあり、

生残る我にかかるや草の露 

が残されている。

草の露が足にかかるとの肌感覚が、死せる父に対する生の実感なのだ。「生き残る我」が実感であればあるだけ。詩情は薄まる。古郷を追われるように出され、母亡き後の唯一のより所であった父はようやく会えた途端に旅だってしまった。この先の孤独を「生き残る」と言ったのだ。前書にある「俤のけぶりさへ消えて」にちょっとウルっとした。

 

父の初七日に一茶は継母、弟に対して遺産問題について談判するのだが、一茶の手には父の直筆の遺言状があった。そこで小林家の本家である弥市の仲介により、口約束ではあっても遺産の均分相続を継母と弟に承諾させた。しかし一茶は具体的な遺産の分割についてまでは踏み込まなかった。俳諧師として江戸で成功したいとのスケベ心もあって、遺産分割で土地を手に入れ、百姓として故郷柏原に落ち着く気持ちは揺れていたはず。

 

父ありて明ぼの見たし青田原 享和元年

句意の核心は「父ありて」で、曙はその象徴にすぎない。父と一緒に見たのは子供の頃で、記憶も定かでは無いかもしれない。それでも「父ありて」と願わずには居られない。「青田原」からは一茶の原点が百姓にあると知らされる。

一茶はこの時には遺言を守って郷里に暮らすつもりと喋っていたのかもしれない。周囲には「妻を迎えて」などと親身になってくれる人もいたらしいが、「聞かぬふりに空耳したる人あり」と冷ややかに一茶を見ている人も多かった。「青田原」にはこれから自分も元の百姓に戻るという決意も感じられるが、「父ありて」と仕事を教えてくれないかと弱気もあった。

 

しかし、この相続問題が解決するのは文化10年1813年なので、足かけ13年も争うことになる。腹違いの弟にしてみたら、どこぞの風来坊に命の糧を生み出す田畑を奪われては生きていけないワケで。

 

ただ、北信濃の遺産分割の習慣は基本的に均分相続で、一茶の本家小林家は祖父の代も財産を均分に分割して相続している。その判断は北信濃では一般的で、小林家でも行われてきたので妥当なものではある。

 

何事の一分別ぞ蝸牛 文化10年1813年

人事を蝸牛に投影する一茶調だが、相続訴訟の義弟の主張を言っているのだろうか。この年に相続問題は決着した。

 

(続く)