新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月

を基礎資料としている。

 

寛政 天明9年1月25日1789年2月19日に改元

享和 寛政13年2月5日1801年3月19日 改元

 

西国への長い長い旅は、師である二六庵竹阿を辿る旅でもあったし、それによって葛飾派に於ける自らの地盤を固める作業でもあった。そして一茶自身も人として俳人として多いに成長した。

 

秋の夜や旅の男の針仕事

花鳥風月を詠まず、孤独な旅をする境涯を直視するような、一茶らしい句も作っている。

 

若い母親が布を点検している。絽の反物だろか、洗い張りができるのかな?この繊細な画像を見たとき、すぐに加山又造を想起した。↓粗い画だけど

分かりにくいが、展覧会で見るとレースには折り重なった部分があって、細かくデリケートに描かれている。

 

で、苦労話が「寛政紀行」の書き込みに、「一、たとへ日を累(かさ)ねて逗留なりとも、別るる期に別れざれば、大いにひがごとをとる事うたがひなし。心がけの第一なり。武士の死すべき時死におくれして、後悔すといへども、其の耻すゝぎがたしといへるに等し。」と書かれている。「ひがこと」つまりはマナー違反だと誹られるに決まっていると、自戒を記した。どこかでやっちまったのだろう、何事もしくじって育つのだ。

 

寛政11年1799年には、師匠の俳号を継ぎ、二六庵一茶と名乗った。しかし残念ながら、一茶の作風(後に「一茶調」を確立する)は派内での受けが悪かった。さらに、葛飾派内には「二六庵一茶」襲名を快く思わない者も居たらしく、経緯は不明だが、結局は葛飾派から排除されてしまった。一茶の歪んで卑屈な部分も受け入れられなかったのだろう。追い出されたということは、「葛飾派の一茶」はただの市井の俳諧師になったワケで、収入の道が閉ざされてしまった。

 

この時、房総の複数の俳句サークルであった花嬌など十数人の房総の俳人が、俳諧各派の垣根を超えて「一茶園」(いっさえん)という団体を作ってくれた。会員は会費を納めて毎月自分の句を一茶に送り、一茶は『一茶園月並いっさえんつきなみ』という機関誌を発行した。この収入でなんとか生活ができたそうだ。年上の人妻花嬌に惚れている一茶の気持ちを、もしかしたら花嬌姉さんは知っていたろう。

 

上記の房総は富津の織本花嬌(女性)は豪商・織本家の嘉右衛門に嫁いだ超美人さんで、夫と共に俳諧を学んでいた。嘉右衛門は商売だけでなく教養もあり、江戸の宗匠大島蓼太に師事している。信濃生まれの蓼太はポピュリズムに流れる俳諧界に「芭蕉復帰」を唱え、門下生3000人を超えていたとか。「花嬌」の号は師である蓼太が与えたもので、「嬌」は「愛嬌」とも使われるように「優美で美しい」の意味だ。一茶にとって、この女性が房総最大のパトロンになる。当然ながら、例の機関誌には花嬌の句は毎回掲載されていた。

 

大島蓼太は若き日の一茶を連れて富津へやって来て、織本家に紹介したところ、一茶も厚遇されたのだろうが、奥様の美貌に引き込まれて、足繁く通うようになった。このご縁で、葛飾派を追い出されても生きていけた。大島蓼太と葛飾派との関係はワカラナイが、江戸と房総と距離的に離れているので利益相反は無かったのだろう。

広重鋸山

※銀座ナイルレストランの創業者ナイル氏は富津にお住まいと伺ったが、おぼろげな記憶。

 

一雨颯々と過ぎて、軒雫涼風おとづれて、木の間月ほがらかなり。こよひ星祭る夜なれば、二星の閨情はいふもさらにして、世の人の祝いおほかたならず

わが星は上総の空をうろつくか 文化元年

富津で詠んだらしい。花嬌さん恋しさに、魂がうろついたか。仏教では「うろ」とは煩悩を有するものを言い、凡夫俗人のこと。所詮一茶は流れ星か。

豊国 

「流れ星」を「夜這ひ星」と呼んだが、「婚ひ星」と表記する方が気分が良い。

 

 

やがて花嬌もこの世を去るが、一茶はお葬儀の後になって花嬌の死を知った。それでも富津での「百ヵ日法要」には間に合い、参列し、追悼句2句。

草花やいふもかたるも秋の風 

あさがおの花もきのふのきのふかな 

「いふもかたるも」「きのふきのふかな」とは思いっきり一茶調。

 

花嬌は一茶の8歳年上だが、一茶は道ならぬ恋心を抱いていたようだ。一茶が世帯を持つのは52歳寛政元年1814年で、いろいろ事情はあったが、もしかしたら再び人を好きにはなれなかったのかも。

 

芍薬

 

花嬌の三回忌に詠んだ追悼句

目覚しのぼたん芍薬でありしよな 

何をいふはりあひもなし芥子の花 

亡くなった後も、その美しさの軛から逃れられずにいた気がする。

 昔人の物語(109) 織本花嬌「一茶が恋をした千葉の美人俳人」 | 医薬経済オンライン

 

などと多少の知識と共に、今回の冒頭の一句

秋の夜や旅の男の針仕事

を読むと、背を丸めた男の孤独感がよくわかる。             

 

ちなみに、一茶と花嬌らとの歌仙が残っている。

上総の富津、対潮庵にて

花嬌発句

かい曲り寝て見る藤の咲きにけり

薪(き)を割る音に春の暮ゆく 文東

細長い山のはづれに雉泣いて 一茶

鍋ぶたほどにいづる夕月 花嬌

烏帽子きて風に吹かるる萩の花 徳阿

貢の酒の桶作るらん 文東

牛の子を秤にかけて淋しがり 花嬌

独り経よむまでに成りしや 徳阿

山科は牡丹の花の盛りにて 文東

糸を染め染め待つ人もなし 一茶 ※1

暁の小川に夢を流すなり 徳阿

幣(ぬさ)ふる役は仏五右衛門 花嬌

(奥の細道には日光の宿の主、仏五左衛門という正直者が登場するが、これでは字余りになるので)

をりをりの雨降るたびに餅のこと 文東

おととし見たるみ吉野の月 徳阿

痩骨のふしぶししみる風吹きて 子盛

(裏十一句は花の定座、花が付けやすい句を)

彼岸の鐘のどひやうしに鳴る 一茶 ※2

とうふ殻花の木かげにけぶりけり 花嬌 

大長刀にかかる春雨 子盛

鶯の鳴きゆく方へ舟引いて 花嬌

(匂いの花の定座)

かばかりの垣ほも花となりにけり 一茶※3

(挙句)

陶(とくり)の穴も霞たなびく 文東

(めでたく満尾(まんび)、三十六句を巻き終えた)

 

※1一茶も言わずにはいられなかったのだろうな

※2「どひやうし」とは「度が外れている」「間が抜けている」

※3「垣ほ」は垣の高いところ

 

(続く)