新版日本秀句3 一茶秀句 加藤楸邨著 春秋社 新版第一刷 2001年7月

を基礎資料としている。

 

寛政 天明9年1月25日1789年2月19日に改元

 

雲に鳥人間海に遊ぶ日ぞ

「雲に鳥」は陰暦三月の終わり頃だが、陰暦三月三日は大潮で、貝採りに沖まで行けるほどの風景だそうだ。

そこに遊ぶ「人間」とは五蘊皆空の存在であり、消えゆく物への共感があるのかも。一茶は海無し信濃の生まれなのだが、3歳で実母を亡くしているので、広き海や吹き渡る風に安らぎを感じていたのかもしれない。

広重深川洲崎

 

掲句は寛政5年作だが、寛政7年には

天に雲雀人間海に遊ぶ日ぞ

と改変されてもいる。今では雲間に消えるのは雁の気がするが、かつては「雲に入る雲雀」などもあったらしい。個人的には「雲に鳥」の句がずっといい。

 

一茶32歳の寛政6年1794年の新春では

初夢に古郷を見て涙かな

と、望郷の念を率直に詠っている。宗匠になるための覚悟の旅とはいえ、ほぼ見知らぬ人に一宿一飯の世話になるのは厳しかったのだろう。

 

寛政7年1795年の正月は、浄土宗総本山知恩院の末寺・福衆山普門院専念寺で迎えたが、ご住職の性誉(せいよ)はおなじ竹阿門下の俳人で、知り合いでもあった。

親身のお世話をいただいた寺で一茶は

元日やさらに旅宿とおもほへず

と詠み、旅寝の緊張感から解放されて、命の洗濯ができるほどに休まったようだ。境内にはこの句碑がある。

専念寺&句碑

https://www.city.kanonji.kagawa.jp/soshiki/21/14032.html

 

 

梅が香に障子ひらけば月夜かな

今の感覚では「梅が香」「障子」「月夜」とは、「いったいいつの話やねんと」突っかかりたくなるが、一茶の気分は良好で寛いだ佳句である。俳句は定型詩かつ季題ごっこであるべきだが、その季語が重なるのは、今日的には抵抗がある。しかし以前は素堂の「目には青葉」の例もあるし、今ほどの拘りは無かったのだろう。

 

専念寺から伊予へ向かい、

遠望

冬の月いよいよ伊予の高嶺かな

なんぞと絶好調に、得意の言葉遊び系を駆使している。この軽さが無ければ、無職の旅人は餓死するだろう。

草いきれ人死にゐると札の立つ 蕪村

 

道後温泉

寝ころんで蝶とまらせる外湯かな

蝶々を「留まらせ」てやるとはハッピー気分のお裾分けなのだろうが、言い方が貧乏根性丸出し。

朝湯こんこんあふるるまんなかのわたし 山頭火

山頭火も副交感神経優勢で幸せだが、素直に夢見心地を楽しんでいる。ただ、山頭火の貧乏はいざとなれは離縁した元妻や出来の良い息子や、熱心な弟子からの援助が期待できたから、ちょっと違うかな。

 

道後温泉

温泉には歓楽街が付き物だが、元弘4年1334年に建立された「一遍上人御誕生舊跡(旧跡)」の石碑が奥谷地区の遊郭松ヶ枝町に見られる。門にはアーチがかかって、吉原と同じだ。

吉原遊郭

 

今は時宗宝厳寺の門前に設置されているようだが、移設したのか、元々この位置なのかは不明。

宝厳寺

 

間もなく四国を出て岡山から大坂へ行き、河内から堺へと回った。

衣がへ替へても旅の虱かな

旅の途中なら、どこぞで古着でも手に入れたのか。気分はすっきりしたろうが、体に取憑いた虱は出て行ってくれるはずもない。もしかして、虱に親近感を抱いているのかも。

この句は当然ながら 

夏衣いまだ虱を取りつくさず 芭蕉

を念頭に置いているのだが、一茶にはそもそも取り尽くす気なんかない。弱き物へ目を向ける一茶調は、嫌われ者の虱さえ取り込む。

 

 

一茶は西国の地盤固めの旅を一応終えて、寛政10年1798年に郷里に立ち寄ってから江戸へ戻っている。足かけ7年の長旅だ。大変だったろうな。

この年には北国への吟行もしている。

 

新潟

下駄ころりきやらりきやつらが夕涼み

「ころりきやらり」とは一茶らしい擬態語だし、「きやらり」からの「きやつら」と韻を踏むのも一茶らしいが、「きやつら」とは誰をさしているのだろうか?「きやつ」とは第三者を罵っていう「やっかみ言葉」で、当時は高価な下駄を鳴らせる人々と言えば、古町遊郭の傾城か。好き者一茶ながら手の出ない世界だ。

※信濃川左岸の町は川と平行する「通り」と、これに直交する「小路」から成り、古町通、本町通等々整備された。河口付近の都市と農村との接点には必ずお楽しみ処ができる。小金を持った人々を癒やしたことだろう。

 

 

炉の端やよべの笑ひが暇ごひ

寛政11年1799年 下総馬橋の立砂を悼んで書いた「挽歌」に残された一句。

前年に立砂を訪ねた時、

今更に別れともなし春がすみ 一茶

またの花見も命なりけり 立砂

と付けて別れたが、今生の別れとなった。

東都花見

 

立砂は師である森田元夢の同門の後輩である一茶をよく面倒をみた。柏日庵立砂こと大川平右衛門は馬橋の油商だが、師の元夢のいた布川は裏作として菜種油の生産をしていた。その縁で師弟となったと言われている。 

 立砂の店には弥太郎という名の奉公人がいたとの都市伝説があるが、「弥太郎」とは一茶の本名でもある。偶然なのだろうが、立砂は経済的な支援もしていたのではないか。この馬橋には一茶が住んでいた説もある。

 一茶が東葛地域で多くの時を過ごしたのは支援者が多数いたからで、馬橋に油屋大川立砂、流山に醸造家秋元双樹、利根川向こうの布川に船問屋古田月船、守谷に西林寺住職・鶴老などが居た。

同門の大先輩でもある立砂を一茶は、「翁」と敬う句で詠むほど信頼しており、親子のような関係だったとも。

 立砂の死後も大川家と一茶の親しい関係は続き、馬橋の萬満寺で行われた立砂の十三回忌には、一茶が十三の追悼句を詠んだそうな。

 

で、さきほどの「炉の端やよべの笑ひが暇ごひ」では、「炉端に座ると、昨夜の笑い声がまだ残っているよう」と長年目をかけてくれた立砂への素朴かつ素直な感情がストレートに表現されている。囲炉裏の端に座って俳句談義をする二人が目に浮かぶ。しかし、それが最後の別れになったとは。哀悼の直接表現が無い分、余計に切ない。

「よべの笑ひ」の「よべ」の本来の意味は「昨夜」だが、ここでは「最後に会った晩」として、あの時の笑い合った声が蘇っている。今思えば、あの笑い声は「いとま乞い」だった。しっかり別れをしておくのだったと、いささか悔いもある。しみじみとした佳句で、一茶のこの感じが好きだな。

ちなみに囲炉裏は火事の危険性が高いので、江戸市中では使われず、「炉の端」なら都市部を外れた場所とワカル。

囲炉裏 射水市新湊博物館

 

 

(続く)