三菱一号館美術館の川瀬巴水 その8 早い夜

 

当時の写真機の苦手とする暗がりを、浮世絵を母とする新版画は生き残る活路として見いだしたようだが、薄暮にも面白いものがあった。

 

では巴水から。

 

深川と隅田川の合流点に架けられた木橋を上の橋と呼んで絵師には人気の素材だったようだが、場所的には江東区清澄になるらしい。

大きな帆掛け船が麗しく、広い河口で海はすぐ傍だ。でもネットからの詳細な画面には、岸には様々な家屋敷が建ち並んでいるから、海辺まではまだ遠いか。橋脚は水に傷み、細くなっているが、水は澄んでいるようだ。(図の下段はネットから)

水澄むや大川覗く橋の穴 あき坊

 

次の画は品川沖と題されている。見えている島は砲台というかお台場だろうが、軍事的な気配がないのでどうなんだろ。

この画の複雑な空は魅力的、晴れざる日の空。時刻は不明、入り組んだ明るさには眩しさがないので、もう日暮れは近いのだ。

品川沖を見る位置では夕日を背にするので、舟の白い帆に当たるべき夕日の赤さが無いなら、やはり曇りの午後だ。下の画からは空の微かな赤味が見えて、厚い雲の上には夕焼けがありそう。

海苔舟や盥に黒き海の色 あき坊

 

展覧会は「小林清親から川瀬巴水まで」とタイトルされていたが、ここまで何枚も取り上げた高橋松亭もなかなか良い。

 

蛍狩りとは蛍を鑑賞するだけでいいのだが、団扇で扇ぐことで蛍を活発に飛ばせて遊ぶのだろうか。画中の子供は虫籠を持っているから、やはり捕まえるのか。

追ひ回す子を引き留むや蛍狩 あき坊

 

このような素朴な感じもいいのだが、松亭は舟を配置する画がまた素晴らしい。

伊豆稲取

図録からのコピーなので、中央の線が煩い。

帆を上げよ潮も叶ひて月明かし あき坊

 

大正15年の伊豆稲取に停泊している大船は、船団を組んでの回船業だろうか。荷が軽そうで、船は船底を見せている。畳まれた帆と交叉するように描き込まれた帆柱がどうにも理解できないが、二枚帆の高速船とかありなのだろうか。高橋松亭が船を描く際のデッサン力はすばらしいが、悩ましいところもある。とはいえ、やや荒れ気味の波は次々と船に当たり、そのまま夜を待っているのだろうか。次図はネットから

残照の沖へ船出や秋の波 あき坊

 

金閣寺に火を放った徒弟僧のように、観音像の指をへし折った輩のように、自分好みに加工してみた。帆柱と帆は交叉させず船は三艘と蔭に一艘の系四艘とはっきりさせて、さらに気分良く月より夕日に照らさせた。

大夕焼荷下ろし終へし船の底 あき坊

 

伊豆稲取の船は底が見えて空船とわかるし、次の品川沖の船は積み荷の重さで喫水が深くなっている。そして停泊する舟はどことなく生活臭い。煮炊きもするのだろう。

七輪に火のある船や春の海 あき坊 

 

井上安治も夕景を描き、光と影の「光線画」を継承したが夭逝された。

ネットからの下段の空からは闇が消え、明るい空になっている。葛飾北斎の傑作「東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪」では、初摺りの闇が下で広がっているので、もしかしたら、版元の指示で摺師が意図的に摺りを変えているのかもしれないけれど、贋作かも。

川船のなかば没せり虎落笛 あき坊

 

小林清親の夕景はバランスが悪くてどうにも好きになれないが、夕方の気配はある。下段は展覧会場で撮影した画像。場所的には万世橋からお茶の水へ上がる坂の辺りだと嬉しいが。

夕焼けに乱るる雲やニコライ堂 あき坊

※明治14年の大津事件とは関係無いようだった

 

清親の画が教条的というか堅苦しいのは、彼が弘化4年1847年生まれの御家人の子で、16歳の時に父親が亡くなり家督を継ぎ、慶喜について伏見の戦いに参加した等の人生だったからかも。江戸城明け渡し後は、徳川家に従って静岡へ移住している。武家として辛酸を嘗めたことだろう。絵師としては独学であったらしい。

屋根の光具合など魅力的でもあるのだが、いつもながら人物を描けない。でも示唆には富み、二人の俥夫の一人が前方で綱で引っ張るような高速人力車もあったと知れる。女客は着物の着方から察すると堅気らしいので、待合茶屋へ急いでいるのか。その帰りということはあるまいが。

駆け引きは抜きの仲なり夜半の春 あき坊

※都合で夜半になりましたってことで

 

(続く)