三菱一号館美術館の川瀬巴水 その4
巴水やその周辺を眺めてきたが、「小林清親から川瀬巴水まで」と題されたこの「新版画」の展覧会で、ふと気になった作品があった。
春之雪(京之清水)昭和7年
美術館にひと日を遊ぶ端午かな あき坊
描かれた「春之雪(京之清水)」は大好きな京都でとてもうれしいが、見入る内に三重塔の位置におやっ?と思った。
つまり清水の舞台は見おろしているのに、三重塔は真横から見ている。言い換えると石垣から向こうの景色とせり出した舞台とが捩れたまま合成されているので、むずむずするような異和感があったのだ。
実景
相輪の先に生まるる深雪晴 あき坊
しかし、当然ながら京都大好き人間の仮面を脱いで、「新版画」ファンとして作品と接すれば、全く問題は無い。芸術の前では写実性は一つの要素にすぎないのだから。浮世絵にはデフォルメの特技があるし、西洋の数学的な調和とは掛け離れた構図はゴッホを驚かせたし、その彼の描く教会は実物以上に存在感がある。
教会へ急ぐ農婦や秋深む あき坊
清水の舞台には、たたずむ二人の女性の他に人の気配は全くない。そして二人の足跡はすっかり消えて、雪は静かに長く降り続いている。空間的なゆがみは気になるが、好きな画だ。
図録(紙への印刷物)では実感がないので、ネットでのカタログからの拾いモノを。
鳥辺野や限りある世を雪しまき あき坊
情緒的な清水寺の雪に対して、「三菱深川別邸」は突き放したような乾いた気分の世界だ。
丸餅の飛びとび並ぶや池の雪 あき坊
人物が登場しないのもその理由だろうが、雪は漂うだけで降っていない。さっきまで降っていた証にと雪のような白い点を描き入れただけかも。雪は、夜空にも木々にも建屋にも池にも降っているが、画面には雪の記号としての白が置かれているだけ。人の営みを見せるはずの窓は単調な白が埋め尽くす。ということで、面白くない画だった。
ちなみに広重の「蒲原夜之雪(初摺り)」メトロポリタン美術館蔵では、雪が漫然と降ることはなく、観る者の目の行く所行く所に降っている。
雪沓や詫びに訪ねる家遠し あき坊
同じ版木からの後の作品では、雪明りの空を押し上げるように闇が低く下りてきて、雪積もる村はずれを行く人々を押しつぶしている。
四人いて足あと三筋雪をんな あき坊
お口直しに、広重の弟子の広景の「江戸名所道戯尽」の雪景色
初雪に二の字を探す天狗かな あき坊
(続く)







