「切る・きる」とは文字通り「切断する」意味の四段(五段)活用の他動詞で、動詞の連用形に付けば「すっかり~する」との意味になる。下二段(下一段)活用の「きる」もあり本文中で。

また、副助詞の「切り・きり」はいわば限界を示すことになる。

 

たつた一人になりきつて夕空 p.15

完全に疑いようもなく「一人」になって。促音便が印象的。

潮満ちきつてなくはひぐらし p.18

障子しめきつて淋しさをみたす p.25

 

ばたばた暮れきる客がいんだざ座ぶとん p.30

「去ぬ」ナ変

 

考へ事して橋渡りきる p.37

放哉らしくない緩さだから、「考へ事して」は要らない。「橋渡りきる」が俳句として成立しないなら、「墓のうらに廻る」もダメだろう。後者が魅力的なのは、そこから放哉が眺めた西方浄土が連想されるから、と考えている。

「考へ事して」を不要にできないのは、この白道を思い浮かべる人が居ないからだろうし、放哉は渡ったことが無いし。

怒りや憎しみの火の河と執着の水の河に挟まれた細い道(橋)を、阿弥陀如来の本願を信じ進めば必ずや極楽浄土に達する。法然上人が崇拝した善導二河白道の教え。

 

 

曇り日の落葉掃ききれぬ一人である p.48

最期まで~し通すの意味の「きる」は文語でははラ行下二段活用だが、口語では下一段に活用する。一般的にはこのように打ち消しの語を伴うことが多い。

 

 

師走のつめたい寝床が一つあるきり p.50 

『ある』は『在り・有り』ラ変の連体形で、副助詞「きり」が付いた。接尾語というのかな?

落葉拾うて棄てて別れたきり p.58

『た』助動詞の連体形+副助詞「きり」が付いた。

上掲二句の「きり」の意味はこの後に「何もない、何もしていない」である。

 

ぽつかり鉢植の綱張り切る p.64

『すっかり(ゆるまず)張る』の意味で、援用の「意気込む」ではなかろう。

 

夕の鐘つき切つたぞみの虫 p.69

須磨寺時代なのでまだ体力はありそうなのだけど、『ぞ』とはよほど嬉しかった。

赤ン坊動いて居る一と間切りの住居 p.72

体言に付いて「~だけ」と取り立てて言う副助詞。

障子あけて置く海も暮れきる p.99

漁火がちらほら見えるか?

 

何気なく使っているが、「きり」にも理屈はあるらしく、これが母語でホントに良かった。