小説『海も暮れきる』吉村昭著のタイトルは、「障子あけて置く海も暮れきる』から採られた。放哉の俳句を読んで不思議に感じるのは、「も」とか「~きる」のニュアンスにしばしば出くわすことだ。その意味でこのタイトルは放哉俳句の個性をよく捉えている。

引用句の後ろに、尾崎放哉句集『放哉 大空』日本図書センターのページを付加した。

 

[添加や並列の

酒もうる煙草もうる店となじみになつた p.48

破れた靴がばくばく口あけて今日も晴れる p.51

小鳥がふみ落とす葉を池に浮かべて秋も深い p.51

「て」を切字に働かせて、「秋深し」だろう。この「も」がよく分からない。

曇り日の儘に暮れ雀等も暮れる p.62

 

[強調の

障子あけて置く海も暮れきる p.99

小豆島での暮らしぶりに、障子を開け放つほどの元気な日もあった。障子の句3句+窓を。

障子張り替へて居る小さいナイフ一挺 p.94

少し前には、ご自分で障子を張り替えたようでもある。

庵の障子あけて小魚買つてる p.109

魚売りがやって来たのだろう。怠惰に障子を開けて鷹揚に魚を買った。

障子に近く蘆枯るる風音 p.119

年が明けて最期の日々が近づくと、障子の向こうの世界とは風音を通してつながるだけになった。

やせたからだを窓に置き船の汽笛 p.120

やがて窓に届く汽笛を聞くのみに。

 

咳をしても一人 p.104

咳をしてさえも、と強調する。

放哉の境涯を思うと「一人」は負の孤独しか思い至らないが、ここまで言葉を削いでしまうと解釈は、「咳をしてさえ」誰の迷惑にもならず気楽でもいいか。

墓地からもどつて来ても一人 p.106

墓地で一仕事終えた後のようで、孤独感もまだ緩い。

掛取りも来てくれぬ大晦日も独り p.113

どこの家でもつけ払いが普通だった時代なので、年末は掛取り集金人が訪れる。極貧の暮しでは、その訪れさえもない。

いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘 p.19

公園冬の小徑いづこへともなくある p.46

 

[限定しない意味に、断定の助動詞の連用形+係助詞

乞食の児が銀杏の実を袋からなんぼでも出す p.20

コスモスなんぼでも高うなる小さい家で p.69

 

何も忘れた気で夏帽をかぶつて p.17

「なにも」は連語になりそうだが、次の句が「ねむの花の昼すぎの釣鐘重たし」なので、「作務も何も(かも)」と言いたいのか。

海のあけくれのなんにもない部屋 p.21

なんにもない机の引き出しをあけて見る p.66

『なんにもない』は全否定。

 

放哉さんの孤独を含む「も」は疲れるので、以下に気晴らし好みの「も」例句を。

鎌倉の夜に入りても花の雨 星野高士

「夜になっても」降りやまぬ雨、と美しい「も」は接続助詞。

 

旅重ね稲城に後の月見るも 星野立子

 

なづな粥泪ぐましも昭和の世 澤木欣一

上掲二句は終助詞「も」。感動を表すので、「後の月を見ているわい」「涙ぐましいものよ」とでも。