≪村上巖・麓人≫
石田波郷を取り巻く人々を知ることで、彼の境涯俳句に踏み入ろうと試みてきたが、これまでに見落としたお三方を追記する。まず村上麓人。
『江東歳時記』の挿絵を描いた村上巌明治41年1908年生まれは、15歳で岸田劉生に師事した画家である。制作日時は不明だが、波郷を描いている。
波郷記念館で見られる古い表紙絵は昭和28年のもの。ムラカミが村上巖である。都電の走る街。
この後、俳誌「鶴」の表紙やカットを描くようになり、『江東歳時記』も手掛けることとなったらしい。
麓人画伯描かむ朱欒賜はりぬ(馬酔木) ザボン
麓人ならこの頂き物のザボンをきっと絵に描くだろう。表紙にか挿絵にかちょうど良いものを頂いた。
麓人居訪はむ道べに幟かげ(村山)
麓人は男のお子さんがいらっしゃるようなので、節句を口実にに飲み会か、いや普通なら仕事の進捗状況の確認だな。
波郷との打ち合わせの様子。並べられた二枚のデッサンにはそれぞれ、『水元小合町で』『江戸川宇喜田町で』とある。
水元小合上町で
乾き反る和本表紙や百舌猛る『江東歳時記』
水元小合上町は、今の水元公園が蛇行する川の中洲なので、蘆の茂る河原だったような絵。未使用なのは別の句が用意されたからかもしれない。
江戸川宇喜田町で
汗の女ら盆提灯つくる他を見ず(読売新聞江東版)
デッサンから、熱心に提灯を作る女性の姿がよく分かる。これも未使用って厳しいよ。
深川不動尊で
前髪にちらつく雪や初不動
未使用スケッチは不動堂に雑踏が被さって鬱陶しい。俯瞰の位置が高くなって空間の広い採用されたものの方が好きかな。荒っぽいとも言われかねない挿絵だけど、この個性が時代を切り開こうとする波郷のフィーリングとぴったりだったのだと思う。
村上麓人画伯は稀有の雷嫌ひなれば
唐黍のみどり鮮し雷見舞(酒中花)
積乱雲が去った後の澄んだ世界に、育ち盛りの唐黍が瑞々しい。見舞われるほど苦手な雷。
村上巖画伯
麓人居百雷あそぶ如くなり(馬酔木)
まるで画伯をからかうように、つぎつぎと居宅めがけて鳴りだした。俳句では「雷がそこら中に」鳴るとかの常識は嫌われるから、『麓人居』だけに『百雷』が轟くと発見し騒ぐことも必要だと教えてくれる。
麓人画伯
やゝ酔へばけえしいに似て十三夜(村山)
『けえしい』は1962~1964年にテレビ放映されたベン・ケーシーBen Caseyだろう。
(ベンケーシー;ウィキペディア)
ちなみに村上麓人
骨組みとか似ている感じ。表情は直接会えば似ていそう、医者の笑顔は信用できないけど。
『麓人』は村上巖の俳号で、波郷との縁で俳句に親しむようになった。
村上麓人の俳句
枸杞酒得て重陽の日となりにけり 村上麓人
短冊に仕立てるほどの句でもないが、中七に主題を置く山型の安定感がある。ただ枸杞酒は焼酎、菊酒は日本酒なので、重陽でなくても宜しいかも。もしかしたら、波郷とはいわゆる飲み仲間になっているのでは。主治医吉村先生も取り込まれてしまったし、石田波郷には人間的な魅力つまり甘さがあったのだ。