昭和は不思議な時代で、満州事変の無謀な行動はあったにせよ、昭和十年代前半までは豊かで自由な国だった。

 

石田波郷の上京は昭和7年1932年19歳の時。昭和10年には「石田波郷句集」を刊行している。同12年に石橋辰之助が「馬酔木」を去ったので、辰之助選を継いだ「樹氷林」と同人誌「馬」を併合して、「鶴」を創刊し主宰となった。その際に波郷は「俳論より実作」「古典と競い立つ」「韻文精神」「打坐即刻」「俳句は生活そのもの」を掲げた。

 

波郷の整った第一句集は『鶴の眼』昭和14年沙羅書店発行である。

 

『鶴の眼』刊行前から、波郷は「馬酔木」以外の新興俳句作家たちとの交友を深めている。中村草田男、加藤楸邨らとともに「難解派」あるいは「人間探求派」と呼ばれるようになり、俳壇の中堅作家となっていった。

「難解俳句」はいつの世にもあるが、昭和10年代に指摘された「難解派」とは、新興俳句の登場後に西東三鬼が上記三者の俳句を「難解俳句」と言ったのが始まりとされている。

 

冬日宙少女鼓笛の母となる日(鶴の眼)

『昭和十四年。してみると「難解俳句」とはこの年から言はれ始めたのだ。眼前鼓笛を鳴らし進む少女の一群、戦争、之等の少女達が母となる日は――、暴涙な戦争は敗れ去り、然し少女達は、一人残らず健全な母とならんことを作者は今切に祈る。

「波郷句自解―無用のことながら―」(有)梁塵社』とネットで読んだが、読まない方が面白かった。 

百日紅紅乙女の一身またたく間に 草田男

海超ゆる一心セルの街は知らず 楸邨

花鳥諷詠から出て人間の存在へ迫ろうとする過程での、いわば未完成による「難解」である。作者自身がまだ混迷の渦の中に居るのではないか。

 

頭の中で白い夏野となつてゐる 高屋窓秋

窓秋らの新興俳句の分かりずらさと比べれば、それなりに分かりやすい気もするのだが。

 

 

吹きおこる秋風鶴をあゆましむ(鶴の眼)

現代俳句の鑑賞事典 宇多喜代子東京堂より引用すると、

『秋のある日、あるとき、突然風が吹いた。その風に押されるように鶴が歩いた。そんな句だが、澄んだ格調高い句である。その因って来るところは、「ふきおこる」で半拍おいて「しゅうふうつるを」とつづく中七の流れである。「秋風」をもし「あきかぜ」と読むとすればしらべに躓きをきたす。』

 

ただ、ご本人波郷はあまり自信がなかったようである。

『僕は「鶴」の発刊に因んで上野動物園に出かけて鶴の句を作ったが、不出来で作品欄に発表することはできない。』と、『随筆 俳句愛憎』石田波郷著人文閣昭和16年で述べている。

しかし、師である水原秋櫻子は『昭和を代表する名句』と絶賛している。

 

児の嘆秋風の鶴あゆまざる(大足)

大足昭和16年刊、これでは全然つまらない。上記の説明を読むと、実感はこんな風だった。しかし、俳句には脚色された色気も必要だ。

 

 

「胸形変」の俳句の迫力に感動した棟方志功は、吹きおこる秋風鶴をあゆましむに因んで扁額「風鶴」を波郷に贈っている。

 

棟方志巧筆「風鶴」

墨色の金うかべたり日雷(春嵐) ひがみなり

 

 

この書に関して、鶴同人の鈴木しげをが2023年に一句出している。

志功の書「風鶴」寒も明くるべし 鈴木しげを

 

棟方志功 版画家。知らない人もいるかな?