石田波郷は、1957年清瀬の国立東京療養所(現国立病院機構東京病院)に入院していた際に、清瀬中学校創立10周年記念行事の校歌の作詞を頼まれた。
(清瀬療養所や森・道路)
清瀬中学校校歌
作詞石田波郷 作曲渡辺浦人
1
あかつきの 目覚むるみどり
風かおる 道をたどれば
わが森の 泉の声す
「若きらよ 心きよかれ
若きらよ 心きよかれ」
2
ゆたかなる 黒土うちて
胸ふかく 培う種子に
ふりそそぐ 日のささやきは
「若きらよ 強く伸びゆけ
若きらよ 強く伸びゆけ」
3
春がすみ 秋は狭霧の
美しき ふるさと清瀬
学び舎の 鐘はひびくよ
「若きらよ 学べ正しく
若きらよ 学べ正しく」
深尾須磨子は波郷と違って何曲も校歌を書いているが、その中に波郷一家が1946年から12年間住んだ北砂町の隣の江東区大島(おおじま)の大島中学校校歌がある。学校は小名木川の畔にあり、対岸の北砂緑道公園には波郷の句碑が立っている。
砂町も古りぬ冬日に温められ 波郷
江東区立大島中学校校歌
作詞深尾須磨子 作曲中田喜直
1
強くはげしく たくましく
大東京が脈を打つ
ここ江東の学園に
英知の光かざして励む
ああ われら 若いわれら
われらの大島中学校
2
ここに鍛える 鋼鉄の
独立自主の生活だ
世界をまねき友を呼び
試練をこえて無限に進む
ああ 力 若い力
われらの大島中学校
3
風をきよめて おおらかに
歌えば通う胸と胸
三年を交わす友情の
あかるい花があふれてかおる
ああ いのち 若いいのち
われらの大島中学校
妻けふはすま女伴れ来ぬ鹿子百合(酒中花)
あき子さんが連れてきた「すま女」が深尾須磨子かもしれないと考えた唯一の根拠がこの校歌のご縁である。波郷が校歌の作成に助言を仰いだか、あるいは大島中学校の話などを須磨子が相談取材に来たか、何かあってもよかろうと考えたワケだ。
ちなみに、波郷は読売新聞江東版『江東歳時記』に大島二句
大島二丁目で
水甕に水あふれけり菊作り
大島六丁目で
蠅とめてマヌカンの胸その腕
と詠んでいる。
しかし、お二人の詩人としての態度は全く異なっている。
冒頭を読み比べてみると、
波郷『暁の目覚むるみどり風かおる 道をたどれば』
須磨子『強く激しく逞しく大東京が脈を打つ』
林に囲まれた清瀬を叙情的に詠う詩に対して、須磨子のタフでなければ生きられない的な都会的激励の歌詩は、在校生や卒業生へのいわば檄文になっている。
そして『若きらよ 心きよかれ』と精神性を説く波郷に対して、『英知の光かざして励む』とアジテーターの須磨子であるから、二人に接点はなさそうであ。
2番冒頭は
波郷『豊かなる黒土打ちて 胸ふかく培う種子に』
須磨子『ここに鍛える鋼鉄の 独立自主の生活だ』であり、全体を通してそれぞれ個性的な内容になっている。校歌なんぞはみな同じようなモノと思っていたが、びっくりした。
このように校歌を読んでも波郷と須磨子とはかなり距離がある。病を得てから身動きの取れない波郷とは違って、須磨子は何度か留学したりと外国へ出ることで日本人的な世界感から抜け出せたのだろう。
十二月八日(1941年)
大詔や寒屋を急ぎ出づ(風切)
寒屋の暁よりぞ旗の色(鶴)
この程度なら左翼から批判されるものでもない。むしろ手控えている感じさえある。
満州事変1931、国際連盟脱退1933を経て、大日本帝国は長い戦争に突入したが、その最終段階として1942年昭和17年大政翼賛会の傘下組織として「日本文学報国会」が結成された。そのような状況下で石田波郷以上に皇道主義的に政治化した人々は大勢いる。
波郷は虚子が会長に就任した「俳句作家協会」1940にも積極的に参加はしていない。戦争俳句は別の機会に。
波郷は1943年昭和18年に出征するが、
出征
白露の日本の子等を目にのこす(鶴)
素晴らしい句を遺している。植民地主義の臭みがゼロではないが、出征兵士の心情吐露としてまことに心を打つ。
深尾須磨子は多分3回目の渡欧1939~1940の際にイタリアのムッソリーニの知遇を得て、彼の信奉者となった。後に宮本百合子に批判されて左翼化し、社会運動にまい進された。