杉山岳陽来、久しぶり

岳陽が嚙む苦虫や榛の花(酒中花以後) はしばみ 

鶴の立ち上げやら苦労を共にした仲間でありながら、会う機会は失われていた。酒中花以後は昭和45年なので、若者が社会に対して自己主張し始めた頃だ。その頃に出版のことか何かで不都合があって、相談に来たのだろう。ただの見舞いでは無さそう。

 

杉山岳陽1914-1995 鶴創刊時の同人、波郷が馬酔木同人に復帰した1948年の翌1949年に馬酔木同人となった。同志波郷の尽力があったのかも。

 

 

岳陽に「炭火見ることや流離の膝を抱く」の句ありたれば

牡蠣に思ふ岳陽流離てふ文字(大足)

岳陽は心に闇を持つ人だったと思う。さすらうのはその闇の中。波郷はその字面を思い出している。「さすらいは流れて離れるかぁ」とか?「大足」は波郷の句集1941年。

 

牡蠣食へり病まざりし日に似もやらず(惜命・角川文庫版)

健康だった頃牡蠣を貪り食べた。今また牡蠣を食べられるようにはなったが、元気だったあの頃とは比べ物にならない。

兵の日以後駈けしことなし草虱(文芸朝日)

訓練や戦場では走り廻ったが、その中で業病に憑りつかれてしまった。罹病後は一度も走ったことがない。波郷には悔しさと言うか無念と言うか、常に影として纏わりつく。

しかし、岳陽の流離と比べれば、事態は深刻ではあるが性格は明るい。

 

 

倖か蟻地獄など数ふるは 杉山岳陽

こんな毎日が「倖なのか?」と岳陽は自分に問うている。闇の出口が見つからない。一匹づつが棲み処を構え且つそこから抜け出すこのできない蟻地獄を、ここにあそこにと数える自分はどうなのだと、寂しさをそんなことで紛らわせている自分に問う。時を追いやるだけの自分の存在は倖せと呼べるものなのか?

 

えご散るやうつうつと妻妊りぬ 杉山岳陽

めでたく懐妊の妻を鬱々と眺めている。えごを散らせて、いわゆる五月病でもあったか。

 

端居して百姓の愚痴聞きてをり 杉山岳陽

端居がてらに聞き流している。聞くまではそれが愚痴かどうか分からないのに、興味が無いからさっさと愚痴と判断している。他者とはあまり関わりたくないのだろう。

 

穀蔵を夢の中まで歩ませて 杉山岳陽

「明るい往還に出よ」と友人なら叱るところだ。

穀蔵の一匹だにも振り向かず 西東三鬼

三鬼は穀蔵なんか相手にしていないと威張っているのに。

 

 

藤豆は手のとどかざるなほ上に 杉山岳陽 

自省とも違うようだが、とにかくネクラだ、なんとかせねば。

 

 

 

石原八束君来訪

君去なば食はむ藷君に見られしや(惜命)

病院か自宅か、あるいは事務所か不明だが、笊に置いた蒸かし藷だろう。惜命は昭和25年、食糧事情は未だ改善せぬ時代だった。経済白書に『もはや戦後ではない』と記述が載るのは昭和31年である。舞台が病院だとしたら、当時の入院食はどのようなものだったのだろう。

 

石原八束やつか1919-1998

若いころに結核療養した。石原八束は蛇笏門でいわゆる主観写生を重んじたが、岳陽は『内観造型』と説き、人の内面へ潜り込むことを善しとした。…どうちがうのだ?

虚子は『作者の主観の十分に働いた句』と言ったが、その影響があまりにも大きくて『客観写生の重要性』を解かざるを得なかったのだそうだ。この『花鳥諷詠』の虚子ではあるが、当然ながら作風は主観を前面に出し、更に客観描写(写生ではなく)へと至る。つまり、虚子に於いては主観と客観は対立する概念ではないのだ。

主観に阿る俳句は美しくないが、『花鳥諷詠』では『内的世界』が見えないとするのは誤りだ。

 

血を喀いて大夕焼の中に臥す 石原八束

血を喀いて目玉の乾く油照 石原八束

ゴテゴテして好きじゃないが、重苦しい言葉の連打が八束の個性で八束流なのだろう。

 

ハンカチの白きがごとくこころ老ゆ 石原八束

老いたのは心と。蟻地獄を見つめている岳陽も陰気だが、色彩を失う世界が老いとはさらなるネクラ。

 

くらがりに歳月を負ふ冬帽子 石原八束 

八束の言う『内観』とはこういう事か。つまり、他者の干渉を許さない領域に没することか。しかし、今の自分が大事だしそれしかない。過去の自分はもう居ないのだし、未来の自分はまだ居ない。無い所に踏み入るから真っ暗なのだ。

 

三日はや達治を偲ぶ煙霞癖 石原八束

石原八束は最終的に三好達治に師事している。『三日早や』の正月三日に、三好達治を偲ぶとは、師匠恋しの病膏肓に入っている。拘束された中での自由を好む人も多い、楽だから。

 

大空の冷たく昏るる花野かな 石原八束

花野を観ても、その暗さばかかりが心に残る。

 

月光を炎えさかのぼる海の蝶 石原八束

心象風景は月冴える夜。その光は海面に跳ね、散乱し、その光を伝って遡るように、孤蝶は燃え立ち輝いている。向かう黄泉の国は地下世界ではなく月とでも言うように。

 

桐の花昼餉了るや憂かりけり(風切)

風切は昭和18年、召集されたのはその9月なので、昭和17年に結婚されて翌18年5月にご長男が生まれたりの幸せな時期のはず。波郷に育児ノイローゼとか親になる不安でもあったのかな。俳句もぶつ切り、ぶっきらぼうだし。

それにしても岳陽八束の二人の憂鬱とは異質で、救いがある。