石塚友二は作家志望の沙羅書店店主。横光利一や水原秋桜子、石田波郷、石橋辰之助なども出版した人で、鶴の創刊時の同人、その経営面もみただろう。

 

石塚友二長崎行

木葉髪旅より戻り来けり(風切) 

1906年生まれなので、風切昭和18年1943年三十代ですでに木の葉髪。苦労させているとの思いが波郷にあったか。

 

石塚友二

歓語されど暮の友二に炭なきか(文藝春秋)

場所はたぶん沙羅書店で、楽しく歓談しているがこの部屋には暖房がないと気付いた。沙羅書店はこの年末に炭の手配が出来ないほど困窮しているのかと、波郷は今更ながら驚いた。

 

 

その友二の俳句

冱て返りがらんと夜の古本屋 石塚友二

友二は東京堂に勤めていたことがあるそうだから、駿河台下かな?

 

桃李相競ふに病めるものばかり 石塚友二

結核や伝染病などは不治の病だったので、前途ある若者が多く亡くなった。「桃李とうり」には自分の弟子の意味があるそうだ。春に咲き競う桃と李、この先にまさに彼らの時代が来る。だからこそ春に病む青年への哀れが込み上げる。「ももすもも」より、五七五に拘って「とうりあいきそふに」と句跨りに読んで、波に漂うが如きリズムにお気に入りの一句。

 

入らず要る金繰沙汰や梨嫩葉 石塚友二

石塚友二は資金繰りに窮している。あの時代でも俳誌がバカ売れするとは思えないし、発行した横光の小説もどうだったかわからない。ただ漱石の吾輩は猫であるはホトトギスに連載されたそうだから、俳誌はそれなりの位置にあったのかもしれない。しかし経営者友二はもがいていた。

 

病む臀の置処や寝正月とせん 石塚友二

先立つものが無いからね、、尻をいたわりながら寝正月。

 

らあめんのひとひら肉の冬しんしん 石塚友二

形式的に添えられた薄っぺらい焼豚、場末の食堂のらあめんは薄味で。やはり貧しさに変化はない。軋むガラス引戸の外には冷え込む冬がある。夜が更けるしんしんか、雪が降るしんしんか、そのどちらと決めかねるまま、事態は往還を進んでいく。

 

二重廻し着て蕎麦啜る己が家 石塚友二

屋台の蕎麦屋かと思いきや、己が家なのだ。

私は暖房嫌いで真冬でも、部屋では厚ぼったい半纏を着て手袋をしてキーを打ち、寒過ぎたら寝る。でもこの友二はきっと経済的な事情で外套を羽織りながら自炊をし、暖かな汁物で暖を取っているのだろう。

 

遣り過す土用鰻といふものも 石塚友二

世の中では鰻なんぞを食うようだがなんの騒ぎだと、高楊枝で通り過ぎた。…やっぱり。自営業者はいつも資金繰りに苦しむ。

私も賞与の時期にはしばしば借金をしたものだ。ホワイトカラーには分かるまい。まぁ借入金利分は経費になるけれど。

 

茎立や泥靴乾く薪の上 石塚友二

質素な生活がにじみ出る。

 

粕汁にぶつ斬る鮭の肋かな 石塚友二

ぶつ斬ると威勢はいいが、鮭の肋なら大したことはない。久々の新巻に興奮気味。

 

生涯の師であり、私淑する横光利一を訪ねた際の一句。

十二月十七日雨過山房主人を見舞ふ

鍵穴に蒲団膨るゝばかりかな 石塚友二

ドアのカギ穴から寝姿が見えるお宅とは、想像すれば手狭そうな、でも戦後間もなくはそんな時代だった。これが師との今生の別れとなったそうだ。

 

横光利一の一句

白梅のりりしき里にかえりけり 横光利一

いつ頃の俳句か不明だが、渡欧からの帰国1936年8月25日後の喜びだろうか?横光利一は往きの船で虚子と出会い句座を囲んでいる。俳句は残念ながら、友二のレベルには届かない。

 

友二の紹介で昵懇になった横光利一に触れて、波郷には

横光利一の掌の茶の花後しらず(現代俳句)

があるが、「後知らず」がどのような事柄を指すのか全く分からない。横光の国粋主義を「茶の花」と喩えるほどには波郷は政治的ではないし。