石田波郷は奥様が大好きで、「俳句は私小説」と言い切る人だから当然そこには奥様が頻出する。単調な入院生活に外から刺激をもたらす奥様は格好の標的でもあった。

 

その味気ない病院暮らしに、時には波郷も苛立った。

行春やいさかひ帰る見舞妻(酒中花以後)

奥様にも情緒の波はあるし、甘やかしきれない日もあっただろう。

 

秋刀魚苦し妻叱しおのれ𠮟しつゝ(馬酔木)

何故か秋刀魚の如きの事で怒ってしまった。理由は他にあるのだが、怒りは秋刀魚経由妻行きとなってしまったのだ。収拾のつかない自分にも腹が立つ。新婚生活がいくらか落ち着いた日々のできごとだろう。

 

 

入院中の波郷は彼女の見舞の日は待ち焦がれ感たっぷり。

松の蕊雨上がる妻の来つゝあらむ(惜命)

雨上がりの道を急ぎ足で来てるぞ~と想像して、耳を澄ませたりしながら密かに盛り上がっている。

蕊の文字は索引では蘂となっているが、本文中では蕊だった。

 

見舞客の「また来るね」は寂しい。

紫陽花や帰るさの目の通ひ妻(酒中花) 

「かえるさ」は「帰りがけ」。「帰ります」と音にしなかったのは奥様の優しさ。

 

林檎紅し妻は帰りて居ぬまゝに(惜命)

置いて行った真っ赤な林檎を見てもそれを食べたい気分より、妻の不在の方が気になってしまう。甘えん坊さんだね。

 

妻の見舞五十回

てのひらに柴栗妻が残しけり(酒中花)

見舞いの回数を記録しているのもいささか病み具合だが、見舞の柴栗をじっと見つめているのも寂しすぎ。しっかりして、と奥様は言うんじゃないかな。

 

見舞妻去りしより除夜いよよ急(酒中花)

お帰りになった後は、なにやら呆然としてしまって、気が付いたら除夜の鐘が鳴る時刻。病床に一人の年越しはさぞや切なかったろう。

 

妻が来し日の夜はかなしほとゝぎす(惜命)

それにしてもややこしい病人だ、手のかかるというか、奥様にしてみたら。しかしもしかしたら、女性はその面倒くささをカワイ~とか思うのだろうか?

 

奥様がお見えにならない日はもっと大変。

三色菫幾日妻来ず虻も来ず(鶴)

「虻一匹来やしねぇ。それもここんとずっとだよ」とふてってしまった。それに「三色菫」「妻来ず」「虻」と俳句的にもごてごてし過ぎの取り乱し気味。

 

妻は居ず雨蛙一つ鳴きいだす(保健同人)

この程度だと共感もするし、ご自宅にお子さんといらっしゃる風景の気がする。子供と遊ぶのに少し疲れるころ、縁側を潜るように聞こえてくるカエルの声に安らぎを得た。

 

力紐梅雨じめりして妻も来ず(酒中花)

力紐は病身を補助するものだろうか。そのようなものに頼らざるを得ない身なれば、なおさら弱気にもなる。梅雨じめりの鬱陶しさの中では、身を起こすことさえ面倒だし、来るはずだった妻も来ない。病む身は止む身、待つ身でもある。

 

筍飯届きて妻の来ぬ不安(酒中花以後)

届いた筍飯が不安の原因なら、奥様が作って誰かに届けさせたのか?事情を知らない運び人は黙ってナースステーションにでも置いて行ったか。奥様に熱でも出たかなと心配になった。

 

花菜漬見舞妻また病みて来ず(酒中花)

奥様も無病息災とはいかない。

 

妻病めり傾き減りし炭俵(春嵐)

時期は分からないけれど、奥様はご病気で家事も滞りだした。炭俵は中身が減って潰れ傾き出したので、買いに行かねばと思っている。日ごろの妻の活躍への感謝を込めて。

 

妻に

水仙花三年病めども我等若し(惜命)

龍の玉妻と一病づつもちて(鶴)

石田あき子さんは59歳と若くして亡くなられたので、あるいはご病気がちだったのかも。