日野草城は昭和21年1946年45歳の1月に肺炎で病臥し、肋膜炎、肺浸潤症を併発し、大阪海上火災保険株式会社を休職して療養生活に入った。昭和24年に職は失うが治癒した。昭和26年緑内障にて右眼失明。最初のホトトギス同人は昭和5年1930年で、昭和11年同人除名後、昭和30年に再びホトギス同人に推された。昭和31年、54歳6カ月にて逝去。水原秋櫻子と初めて会ったのは大正11年1922年4月と言われている。

 

草城の特異な傑作「ミヤコホテル」(俳句研究創刊第二号昭和9年1934年4月号)を、秋櫻子は馬酔木六月号の俳壇展望で『ミヤコホテルは傑作ではない。却って草城氏の欠点を暴露した悪作であると僕は信じる。草城氏の才気を僕は人一倍認めているつもりであるが、その才気ぶりがかう上滑りをしてはやりきれない』と批判した。

枕辺の春の灯は妻が消しぬ まくらべのはるのともしはめがけしぬ

房事の後に男は寝入ってしまった。新婚初夜の話だが、まるっきりフィクションなのだ。

 

久保田万太郎は秋櫻子より少し早くに、『連作でも一句一句が独立した存在を持つべきで、そうでなければじだらくな遊びに陥り易い』と批判した。しかしその後、その斬新さに賛意を示す人々が現れたりと談論風発、にぎやかになる中、草田男は昭和11年新潮7月号に「尻尾を振る武士」と激しい論を乗せた。読むと罵倒に近くて、ただの俳句評論にしてはやり過ぎで面白くない。当方は草城ファンだし。

 

石田波郷が草城をどう見ていたかは知らないが、同病でもあり親近感はあったようだ。

 

湯豆腐の冷えてすべなし草城忌(馬酔木) 

  湯豆腐やいのちのはてのうすあかり 久保田万太郎 ミヤコホテルのひと悶着が念頭にあるにちがいない。

 

配膳の粕汁冷えぬ草城忌(酒中花)

  粕汁に酔ひし瞼や庵の妻 日野草城 

ほろ酔いの女ざかりの妻をこんな粗末な家に暮らさせてしまってとの草城の思いと、自分の生きざまとを比べていたら、配膳された折角の粕汁が冷めてしまったよ。

 

十の字にとぶ二羽の鳩草城忌(酒中花)

女患者部屋にをとこのこゑや草城忌(酒中花)

  をみなとはかゝるものかも春の闇 日野草城 

波郷はある時女性患者用の部屋に男一人押し込まれたが、何事も無し。

 

山鳩も乏しくなりぬ草城忌(馬酔木)

侘助の群がる日なり草城忌(酒中花)

三年に足らぬ仰臥や草城忌(かつらぎ)

日野草城の療養期間を言っているのかな、結果草城は治ったし。

 

高熱の鶴青空に漂へり 日野草城 から、草城忌は鶴唳忌(かくれいき)とも言う。

 

 

忌日は他にもまだまだあるけれど、古郷忌、横光忌と草城忌の他は量的に少ない。波郷からの親密の距離感がこの三人は突出しているらしい。

 

では忌日でも気持ちの塞がない二句を。

時雨忌や林に入れば旅ごころ(酒中花)

虚子忌たり椿も鵯のよく来る日(酒中花) 

 

最後に敬愛してやまない老師を夢に見た句。

二日早暁喜雨亭老師を夢む

初夢の老師巨きく立たせけり(酒中花)

 

忌日終了 っほ。