石田波郷はウィキペディア等によれば、大正2年1913年の3月18日生まれで、昭和44年- 1969年11月21日に没している。本名は哲大(てつお)、昭和5年1930年4月には隣村の五十崎古郷(いかざきこきょう)から本格的に俳句の指導を受け始めた。「波郷」の名は古郷から頂いた。

この五十崎古郷(明治29年1896年11月20日~昭和10年1935年9月5日没 、享年38歳)は阿波野青畝の指導を受けたこともあるが、水原秋櫻子の門に入った。昭和8年には馬酔木第一期同人に推され、松山にて松山馬酔木会を結成した。

 

波郷は昭和7年12月、「馬酔木」新樹巻頭に五句入選し、これが決定打となり古郷からの紹介状を持って秋櫻子の門をたたいている。

バスを待ち大路の春をうたがわず 

訪ねた秋櫻子こそが生涯の師となり、昭和9年5月から「馬酔木」編集に参加した。同年に久保田万太郎を慕って入学した明治大学は昭和11年3月に退学し、俳句に専念することとなった。翌年に俳誌「鶴」を創刊し主宰者となったことは先述した。

 

波郷のご子息修大(のぶお)の名は、古郷の本名五十崎修と波郷の哲大に由来する。

 

波郷は早世の古郷を生涯を通して感謝していたようだ。古郷(忌)の俳句をたくさん作っている。

 

古郷先生

西条柿なほ熟れずして菊を剪る (馬酔木)

西条柿は渋柿で、干柿にする。その手間のかかる柿がまだ未熟なのだ、自分も同じ。足元の菊を剪って、そろそろ命日の古郷先生の供養に飾ろう。

理に走って好きな句ではないが、恩師を思う情は伝わる。

 

古郷忌近づく、同じ病に臥したれば

ねむれざる虫の夜は如何に過ごしけむ (馬酔木)

療養所に臥して見上げる天井に、きっと古郷も見たはずの孤独な天井を重ね合わせながら、そして結局は自分の「死」に漠然と怯えながら、眠れぬ夜を過ごしている。薄明りの中に古郷先生の顔が浮かんだか、命日も近い。

 

 

古郷は大正11年夏面河で水泳中、巌に背中を打ちつけて脊椎カリエスとなり、ついで胸を患らい、大正15年にその再発に因って病臥の身となった。句作はそのころからと思われるが、古郷と号したのは昭和3年からである。

 

馬酔木の水原秋櫻子は二人の松山を訪れたことがあり、その際のご当地俳句の句碑がある。

(おうち)さけり古郷波郷の邑かすむ 秋桜子

場所は重信川出合橋近くの県道沿いにある。

 

 

五十崎古郷の長男五十崎朗は波郷の弟子に入ったが、五十崎邸の庭には古郷波郷の二人一基の句碑がある。

寝待月灯の色に似て出でにけり 五十崎古郷

寒椿つひに一日のふところ手 石田波郷

 

 

以下古郷の俳句から十句選んだ。穏やかなお人柄が伝わるだろうか。

 

奥山は雪ふかけれど西行忌

 

ゆすら実の麦わら籠に余りけり

 

暮れおそき草木の影をふみにけり

 

草の戸の嵐のひまの門火かな

 

桑の実ややうやくゆるき峠道

 

喜雨の来てそこらいそがし草の宿

 

星空に実を垂れそろふ藜かな 

 

鯰の子己が濁りにかくれけり

 

朝の虹立ちかはりたる青嶺かな

 

ひとり来て秋の祭の梁を守る