井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべえためなが)

パンフの銅像の井沢弥惣兵衛為永は紀州藩の土木に秀でた勘定方であったが、将軍となった吉宗によって幕府に召しかかえられ、数々の事業を成し、最後は旗本となった。

 

享保の改革見沼の田植歌

 

鴻沼は井沢弥惣兵衛が農地化した見沼の西にあって、新田西側の見沼代用水路西縁の水は鴻沼(高沼)導水路を経由して鴻沼(高沼)に入り、鴻沼排水路から荒川に注ぐことになった。この見沼水運、荒川水運が江戸への物資輸送のルートである。

 

導水路掘れば繕ふ田植笠

 

見沼の農地化は堤を作ることで上流から見沼への流入水を堰き止め、沼を干して実行された。この堤は長さが8町あったので八丁堤(はっちょうづつみ)と呼ばれている。

この溜井の堰の手前に見沼を横断する閘門式運河(こうもんしきうんが)が作られ、これが1731年(享保16年)完成の見沼通船堀である。今は国指定の史跡として年に一度(例年8月下旬)関の角落板(水を堰き止める板)を使用して、往時の通船の様子を再現する実演が東縁で公開されている。

 

板を積む閘門運河菱の花

 

図にある氷川女体神社は見沼の水信仰の中核的な古社で、武蔵一宮氷川神社と暦に関して天文学的に配置がなされている。所蔵する重要美術品(国認定)三鱗文兵庫鎖太刀は太刀を腰に下げるための帯取(おびとり)に兵具用の鎖を使った太刀で、拵の鞘と柄の俵鋲(たわらびょう)に三鱗紋が表現されている。この紋が北条氏の家紋なので、北条家が奉納したものと考えられている。

 

大太刀の三鱗紋青時雨

 

 

では年中行事の表にある「ふんごみ」を最後に。

 

捨て苗を積みたるままのトラクター

 

摘田の欄にあるふんごみは、ふんごみばかま踏込袴の略で野袴の一種。

江戸時代に武士が旅行などに着用した袴が野袴だが、その野袴は襠が高く,緞子(どんす)などで作り,裾にはビロードの縁をつけたものらしい。

 

野袴に鎌倉街道夏めけり

 

ふんごみに野袴のゴージャス感は無いが、次図上段をふんごみと思っていたら、説明にはタツケとある。確かに袴より脇のカットが大きく、大相撲の呼び出しさんで知っている。

 

ぼうたんや三代前の古写真

 

まぁ、踏込袴は野袴の裾をごく狭く細くした作業着らしい。もんぺ裾細と呼ばれたりするが、股立(ももだち)を取る構造がないので袴ではなかろう。

前に示した田下駄の図にある解説図がもんぺではなくふんごみらしいので拡大して再掲するが、深田泥田で着用とある。

 

手の綱に田下駄も軽き田植かな

 

ウィキペディアで見るもんぺはむしろ袴に近く、これこそふんごみだろう。

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大正の娘盛りの素足かな

 

太平洋戦争下1943では国策としてもんぺが奨励された。慰問に行った淡谷のり子さんは軍の指示を無視してスカート洋装で舞台に立たれたから好き。

 

戦時下のもんぺの行進雨祝