さいたま市立博物館に行って来た。企画展として江戸時代の治水事業の鴻沼川を取り上げている。
夏立つや江戸の治水の企画展
さいたま市の江戸初期にはたくさんの沼があったらしく、その一つが鴻沼である。
18世紀吉宗の時代に、この沼の水を抜くために作った排水路が鴻沼川で、見沼(三沼)の水抜きも行い荒川へと導いた。パンフレットの銅像が指揮を取った井澤弥惣兵衛為永様らしい。
大昔には東京湾は内陸まで入り込んでいて、今日のさいたま市やらの高台部分のみが海へ突き出すように陸地だった。これが大宮台地である。遺跡はこの海岸線に沿うものも多い。大坂なら上町台地ってことになる。
田は昔海と聞きしや今朝の夏
近世以前の関東平野に、無数の池沼と開発の手が及ばない大デルタ地帯とが広がっているのは奥東京湾の沖積地だったから。そこから徳川家康が江戸に幕府を開くことで灌漑事業は一気に進んでゆく。
田打終ゆ離縁の妻も呼び戻し
三行半は書いたけれど、田植えには手伝いに呼ぶのだとか。
武蔵国足立郡小室(現・埼玉県北足立郡伊奈町小室)から鴻巣にあった江戸幕府関東代官頭(家康の江戸移封前は自称だったか)伊奈忠次(1550~1610)は利根川や荒川の付け替え普請(利根川東遷、荒川西遷)を実施した。埼玉県伊奈町大字小室字丸山に伊奈氏屋敷跡があり、伊奈町の地名の由来となっている。
関東代官職を継いだ次男・忠治は茨城県筑波郡伊奈町(現在のつくばみらい市伊奈地区)の町名に名を残し、親子2代で地名の由来となった。
古地図から先祖の苦労を知る植田
この伊奈忠治によって始められた荒川瀬替えは「関東流(伊奈流)」と呼ばれる開発方式で、既存の川を堰き止めて溜井(溜め池)とし、旧河道の流路を活用して上流の排水を下流の用水として使用するものであった。
洪水対策としては遊水池を設置するなど、蛇行した河道をそのままにし、洪水を蛇行部に滞留させながら徐々に流入させるので、結果的に農地には肥沃な土砂が流入することとなり、耕地造成を促した。その効果が更に流域内に点在する沼沢や低湿地を縮小させたワケ。
江戸初期の与野と浦和西部にまたがる鴻沼は溜池としてだけ利用されていた。やがて先述の18世紀享保年間の新田開発の際に、この溜池の水を抜くために作られた排水路が鴻沼川である。2019年の台風では鴻沼川の一部が氾濫したが、今まさに彩湖に続いて第二遊水地とでも呼ぶべき水を逃がす湖が荒川に整備されつつある。
で、鴻沼の両端には見沼代用水から引いた高沼用水路として東西両縁を開削し、鴻沼川は鴻沼の跡を流れる排水路となった。
などとさいたま市立博物館見学のお陰で郷土の知識が増えた。
排水路は江戸期の仕事五月川
参考までに、さいたま市の調(つき)神社は伊勢神宮への貢ぎ物を集荷し、舟で送り出す場所だったとかで「調」と言うらしい。市内に月讀命を分祀している月讀社一帯は伊勢神宮の神田であったので、調神社を通して米を納めたそうだ。で、調神社内にはその調を運ぶための舟を係留する石があると、一度も見た事はないが聞いたことはある、ホントかな…。調神社に鳥居が無いのは調の運搬に邪魔だったからとの説もある。
唐破風へ紙垂の吹かるる若楓
ちなみに、滋賀県多賀大社の奥の院である調宮神社(ととのみやじんじゃ)はご祭神が伊邪那岐命・伊邪那美命であるのに対して、調神社は別称調宮「つきのみや」と読み、祭神は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、豊宇気姫命(とようけびめのみこと)、素盞嗚尊(すさのおのみこと)の三柱である。素盞嗚尊は台風の象徴であり、農事に縁の深い神である。





