俳句の「は」の字はどう書くのとかお座敷遊びじゃあないので、俳句の「は」をしっかり考えたい。

 

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 松尾芭蕉 では、芭蕉翁が夢の中で枯野をかけ廻っているのではなく、夢そのものがかけ廻ると読むような意見もあるがどうなんだろ?

係助詞「は」の機能の内主題提示はその第一だが、その意味で「夢が」と解釈するから普遍化されて「夢というものは」のように読むことになってしまうワケだ。

 

 

今朝は雪柳が勢いを増していた。

花屋の荷花をこぼすは雪柳 大谷碧雲居

 

 

「は」は文語文法では係助詞に、その項目を立てない口語文法では副助詞に分類される。文中の役割は主語や連用修飾語について、直前の言葉を強調する。

やさしさは殻透くばかり蝸牛 山口青邨 では主語に付いて強調し続いて説明があるが、やさしくは殻透くばかり蝸牛と仮に連用修飾語を持ってくると、意味の違いがはきっきりする。

雪風の夜をさざめけり人形は 臼田亜波のように文末に置かれる時は、強い感動を表すことになる。

 

雪やなぎ母に孤独の刻多し 田中灯京

 

助詞の種類には(1)格助詞(2)接続助詞の他に(3)終助詞も大切だが「かな」さえ減っている感じがするし、

盃に泥な落しそむら燕 松尾芭蕉 のような言い回しは今日的にはほとんど見かけない。

ちなみにおなじみの「や」は間投助詞で詠嘆やリズムの調整に使っているが、この「や」は省いても意味的には問題がないのでそれと分かる。

田や麦や中にも夏のほととぎす 松尾芭蕉 となると、並列のニュアンスもあるので、

藥のむあとの蜜柑や寒の内 正岡子規 の純な感動とは違う気もする。もちろん

息白く妻が問ふよく寝しやと 日野草城 の如き疑問の終助詞とははっきり異る。

 

ついでに「けり」は助動詞で、見かけるとほっとする。

元日の人通りとはなりにけり 正岡子規 とはすっきりし過ぎかもしれないが、気持ちが良い。

咲き切って薔薇の(かたち)を越えけるも 中村草田男 俳人は少ない言葉で多くを語りたがるので、時にはひねくれるけど。

 

 

風の中風を誘へり雪やなぎ 本田秋風嶺

 

 

では次回から、山本健吉基本季語五〇〇選講談社学術文庫版仲春から「は」をみていくことにするが、その前に文法をもう少し。

四畳半三間の幽居や小米花 高浜虚子

 

 

格助詞はおもに体言について、その体言が文中の言葉とどんな関係なのかを示している。

俳句に頻出する「の」は例外的に主語を示すだけで、学術的には格助詞としない。受験生諸君は格助詞と覚えて良いが、際どい話なのでまず出題されない。

初花の薄べにさして咲にけり 村上鬼城

 

接続助詞は用言や助動詞の後ろにあって、前後の文節を接続するワケで「ば」「て」の類。俳句では短歌と違って逆接の接続助詞はあまり見かけない印象だけど、

高台の花に棲むとも愁ひあり 文挾夫佐恵「とも」

冬山の暮ゆく茜人は見えねど 水原秋櫻子「ど」

桐の花見えしがその方へは行かず 山口誓子「が」など無くはない。

 

また順接でも逆接でもない「が」「て」などの単純接続は緊張感に欠けるし、俳句に使われる場合は平句に陥りやすいので要注意だ。

稲雀とんでねじれて雀色 山口誓子 碩学に名句と言われればそんな気もするけど。

 

(つづく)