(3) 愛すかな愛すはサ変動詞で「愛+す」の複合動詞である。

 

愛すの意味は現代語に馴染みのある「かわいがる」「気に入る」ではあるけれど、宗教的仏教的には肉体あるいは精神の「渇き、欲望、渇望、貪欲」あるいはそれへの「執着」を言い、渇愛とも訳されて苦しみの原因であるとされる。しかし、愛染(あいぜん)明王は愛欲そのものが悟りであると説く。ちなみに武智鉄二監督の映画に出演された愛染恭子さまは「あいぞめ」と読む。そんなワケで、仏教の根本はその貪りや執着の戒めである。

 

似たような言葉を並べると、

愛づはダ行下二段に活用し、愛する、恋慕するに加えて賞賛するの意味で、自動詞となれば感動する意味となる。

恋ふは心引かれる懐かしむことだが、特に異性を慕う意味もある。

恋ひ渡るとなると恋い慕い続けるワケだ。

好くは何かに打ち込むことであるが、異性に熱中することも指す。

愛ほしとなると不憫に思う心が混じり、やや複雑な感情かも。

 

 

さて妄語はほどほどにして、蕪村のかな留俳句に「体言+かな」が多いのは普通である。蕪村俳句集岩波文庫をパッと開いたページで例句を示せば

句58草霞み水に声なき日ぐれ哉

句60高麗舟のよらで(すぎ)ゆく霞かな

の如くである。

 

同様に「連体形+かな」もかなりある。前回例句として取り上げた 

句325花いばら故郷の路に似たる哉 では、ナ行上一段活用の連用形に完了の助動詞たりの連体形が付いた。

句309けしの花(まがき)すべくもあらぬ哉 

句371老なりし鵜飼ことしは見えぬ哉

句632村百戸菊なき門も見えぬ哉

遺7野路の梅白くも赤くもあらぬ哉

以上四句は「未然形+ぬ」であり、完了の「ぬ」ではない、

遺22さくら散りて刺(はり)ある草の見ゆるかな

見ゆるは下二段活用見ゆの連体形で、見る上一段活用とは異なり、意味も違う。

 

 

 

さて、句9二もとの梅に遅速を愛す哉 の「愛す」はサ変動詞終止形である。

蕪村俳句集岩波文庫には「終止形+かな」が他には

句682夕時雨ひそみ音に愁ふ

だけでとても珍しい。

曾良にうき時は蟇の遠音も雨夜哉があり、「蟇ひそみ音に愁ふ」を画賛か短冊に書いたのではないか。

終止形を含む文言のひとまとまりを想定して、終止形の意図を解釈している。

 

構造的に共通する一句は「終止形+也」で、「哉」を避けたと思われる。

句431川狩や帰去来(きこらい)といふ声す也

「声す」は俎上の「愛す」と同じサ変動詞なので、終止形である。

帰去来は陶淵明帰去来辞の「帰去来兮、田園将レ蕪、胡不レ帰」を読み下せば「帰りなんいざ。田園将に蕪(あ)れんとす、胡(なん)ぞ帰らざる」であるが、ここでは故意に異国言葉風に読みを指定してある。

このキコライは、浄瑠璃「国姓爺合戦」に陶淵明の詩を踏まえて兵士が「帰去来、帰去来」と言う場面があり、蕪村の時代の流行語であった。

 

とは言っても、

遺30花に暮ぬ我すむ京に帰去来(かへりなん)

と読ませる句もあるから、客次第か。

 

(つづく)