今朝の田島氷川神社のお庭にはあやめが咲いていた。
地球温暖化が原因ならこの夏は南極が蒸発しちゃうかも。
昨日名園のこの荒レみよとあやめかな743を読んでいたからかな…
助詞の後半
《接続助詞》「ば」「て」
浅草の塔がみえねば枯野かな 24
小春富士夕かたまけて遠きかな 304
空風の中から泣いて来し子かな 312
庭石に斑(はだれ)にさせば冬日かな 373
いくたびもすわり直して寒さかな 545
わたり来し橋をかぞへて夜寒かな 674
水引のうまくむすべて小春かな 811
「ば」は未然形に付く場合は順接の確定仮定条件なので意味も「~したならば…だ」と分かりやすい。
忘れずば佐夜の中山にて涼め 松尾芭蕉 未然形の「ず」。
已然形に付く場合は若干複雑になり、基本的には順接確定の原因を示し「~だから」だが周囲の状況によって意味がいくらか変わる。
浅草の塔がみえねば枯野かな 24 「みえ+ず」の已然形「みえね」+「ば」なので、浅草の塔が見えないときはいつもつまらん枯野だと嘆いている。「みえずば」と未然形を使えば「見えないならただの枯野だ」となる。
庭石に斑(はだれ)にさせば冬日かな 373
斑・斑雪(はだれ)は「まばらに降ったり、まばらにうすく残る雪」で春の季語だが、ここでは「はだれに」と形容動詞ナリの連用形として使われた。句は弱々しい冬の日差しが庭石に濃淡まだらに差した偶々の景色を見せているが、揺れる恋?の心象風景を詠んだ。
柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 正岡子規では同じく「食う(食ふ)の已然形」を使い、373と同じく「たまたま鐘が鳴った」と偶然性を示している。
已然形接続には主にこの2種類がある。
「て」は因果関係やら説明臭いし、俳句に使うと平句っぽくなるし、好みではなかったけれど、微かな切れを含みに「~て~かな」がけっこう使われるので、この数句のように有効な助詞なのかもしれない。
《係助詞》「は」「にや」「も」
冬籠つひに一人は一人かな 411
「一人は一人」に思いを込めた。ひと塊。
いづれのおほんときにや日永かな 521
「にや」は格助詞に+係助詞やの連語で、軽く疑問を表すことで断定を避けている。日永の気分とその軟らかな気配において通ずるものがある。詠嘆を意識してはいないが切れている。
突き袖も置き手拭も餘寒かな 717
前書に「“法界坊”の番頭長九郎を最後の舞臺として、中村吉之助丞、逝く。」とある。俳句では並列の係助詞「も」は嫌われ者だが、突き袖の仕草も頭上に手拭いを置いた姿ももう見られないとの慟哭ゆえに受け入れよう。軽く切った気分が名優を失った心持をしみじみと伝える。
ちなみに、歌舞伎役者が坊さんなんぞに売りに行く時は、置き手拭いや袱紗のようなもので月代を隠しこれは野郎帽子と呼ばれたが、後にあやめ帽子へと進化した。なんだか今日は「あやめ」の日。
《副助詞》「のみ」
汝が眠りやすかれとのみ寒夜かな 688
「のみ」は上の語を強調するので、寒夜とは切れている。
よほど愛していたにしろ、別れた女に言うべき台詞じゃない。
この句の前四句とで計五句は連作なので並べる。
汝が聲にまぎれなかりし寒夜かな 684
汝が聲の枕をめぐる寒夜かな 685
鎌倉にかも汝は去りし寒夜かな 686
汝をおもふ寒夜のくらき海おもふ 687
汝が眠りやすかれとのみ寒夜かな 688
今気が付いたけど、前書に「昭和三十二年を迎へて、まづ、十年わが家に住みついたる猫トラの死をかなしまねばならなかったといふことは…」(五句)とあった。
(=^・^=)
では次回は名詞
我が庭に地植えのサルビアもこの真冬にずっと花を付けている。どうしちゃったんだろ…