今朝は我が家に梅が咲いた。

 

梅一輪咲くや欠伸をする如く

 

今朝のウォーキングで渡る川には鴨が群れていた。

 

ロティにはせぬよ遊べよ鴨の群

 

歩きながら今朝は切字について考えていたからか、8㎞近いコースをあっという間に歩き終えた。途中で富士山や浅間山を眺めて深呼吸もしたけど。

 

富士の嶺へ畦道続く冬田かな

 

 

さて、では考えていたことを整理しておこう。

 

俳句に頻出する「かな・哉」は詠嘆の意味を込めて下五に使われることが多い。

遠山に日の当りたる枯野かな 高浜虚子

たまに中七に使われる場合もある。

人生は陳腐なるかな走馬燈 高浜虚子

 

意味的には「かな」の前に置かれる言葉に向かって、描かれる世界はぎゅっと濃縮されることになる。

 

切字十八の中で今日的には「や」「けり」「かな」が好んで用いられている。

「や」にはみんな聞いてよ的な開放感があり、「けり」には自閉的な完結感がある。

これらに対して「かな」にはすごいだろ的な発見共有の連帯感がある。

 

上五中七の句中の切字はその時点で俳句の二重構造が容易に確保されるが、下五に使われる時にはいささか複雑化する。

切字を使わない句においても、俳句の二重構造つまりは意味的な切れによる二物衝撃は必要で、これのない十七文字を川柳と呼ぶ。

 

下五に「かな」を置く俳句は格調高く重厚でさえあるけれど、俳句的過ぎて詠嘆を「かな」に依存してしまう傾向がある。ここは要注意かも。

 

自由な山頭火句集をパラパラみていくと、彼にしても初期作品には

しきりに落ちる大きい葉かな 

と切字「かな」の使用例がある。

 

ひらくよりしづくする椿まつかな

となると、ここでは「真っ赤な」と倒置になっているだけ。

鎌をとぐ夕焼けおだやかな

やうやくたづねあててかなかな などと紛らわしいが、山頭火に遊び心があったのなら楽しい。

 

 

そんなワケで、ここからは久保田万太郎俳句集岩波文庫から、例句を拾う。

久保田万太郎は多才な人だったが、湯豆腐やいのちのはてのうすあかりと詠んだ人である。

 

七転び八起き悲しき墓参かな 確かに悲しきは連体形なのだが、墓参ではない何かを修飾している。俳句に用いられる連体形は味わい深いものがあるけれど、ここでは例えば「人生」とか懐古的な世界を想定してみることにする。七転び八起きのはての墓参かななんぞとパクれば叱られる。

 

いづれのおほんときにや日永かな 「歌舞伎座、三月興行に源氏物語を上演」と前書きあり。NHK大河ドラマ光るきみへの源氏物語光源氏の誕生だけど、原文はいづれの御時かである。句中の「にや」は断定を避けるために使われたのだろう。この下五に字足らず十一文字が乗っている不思議な様相を呈している。三月興行の前書がなければ眩暈がするだけだった。

ちなみに いづれのおおんときにや蛍とぶ 齋藤愼爾 と類句がある。蛍と聞くと和泉式部を連想するが、混乱があるのかな。

 

浅草の塔がみえねば枯野かな みえねばと已然形に接続しているので、浅草寺の塔が見えない時は北風が吹き抜けるだけの寒々とした野っ原だけど、今は見えているからハッピーだよねと解釈すると、久保田万太郎氏はひたすら浅草好きなのかも。

 

きえぎえに白山みゆる柳かな 「旅中」と前書きあり。かなり素直になってきたけど、下五の前で切れている。とりあえず「柳」はどこにあるのだろ?と考えると、これは走る列車から見えている風景なのかもしれない。西洋絵画の遠近法で手前の柳は大きい。

 

芍薬のはなびらおつるもろさかな 「中野の立ち退先にて」と前書きあり。「もろさ」が生臭いが真っ当なかな留め俳句である。つまり、句の全体がかなの前の「もろさ」に収斂する。このすっきり感も俳句の醍醐味ではある。このようにその典型として十七文字の中に二物衝撃の無い姿を「かな」が要求することは、常に意識されるべきかもしれない。

 

また切字の無い俳句では切れがあるかどうか分からないものがある。その時には十七音の下に「かな」を付けてすんなり意味が通れば「切れ」はない、と復本一郎は連歌論書「僻連抄」を引用しつつ主張している。

 

うちてしやまむうちてしやまむ心凍つ 久保田万太郎

うちてしやまむうちてしやまむ心凍つかなとすると、ギクシャクして意味も通じないので十七文字に「切れ」がある、つまり俳句なのである。

 

人を見送りひとりでかへるぬかるみ 種田山頭火

人を見送りひとりでかへるぬかるみかなとして意味が通じそう。なので、山頭火俳句はそのジャンルから外れていると言えなくもない。

 

最後に気晴らしに、切字を上五に置いた万太郎の三句を

凍てにけり障子の桟の一つづゝ

さめにけり汗にまみれしひるねより

夏老いぬバスのあげゆく砂ほこり

 

 

などと、思考実験を繰り返しながら今朝はさいたま市の荒川土手を歩いた。

NHKの電波塔が寒風に耐えていた。

 

(あさ)北風(きた)や川を挟んで電波塔

 

土手を降りるところで再び富士山を眺めた。いつ見ても美しい。

 

春近し富士の嶺を溶く空の青