その4では、ブログ田舎からの便りの静可愛さんからコメント欄に上五のかなを三句ご紹介いただきました。上五を『かな』で切る句はケッコー数あるようで嬉しくなりました。
その中の良夜かな盥に紺の衣漬けて 塚本邦雄では、博多帯を解いて汗ばむ浴衣を脱いで、その(手渡した?)浴衣を盥に着けたのは誰だろ?と一人で盛り上がりました。俳句仕立てに秘密のほのめかしが爽やかでいい。
上五に『かな』を置くのは人に言えない秘密を晒したい時にしよう。その意味でも、なにかしら強い衝撃を受けた時は使えそうだし、ケッコー働きそう。でも近頃は衝撃から見放された人生だし、使えるかどうかワカランです。
桜紅葉までもう少しの葉を拾って押し葉にして観察しましたが、三日の時間が経過しても紅い紅葉への兆しもないな。落下したら紅葉しないのか。
紅葉して桜は暗き樹となりぬ 耕二
紅葉かな大樹は闇に溶けまくり程度ではアカン、衝撃力不足だな。
さて、山本健吉五〇〇選秋の部と春の部では上五『かな』も『けり』も尽きたので、上五に切字のある句を掲げます。
【形容詞終止形し】
形容詞終止形はなかなか説得力があって好ましい。翅閉ざし蝶は死にたり愛重しでは歌謡曲だ。
夜はかなし淡雪明り瞳にぞ馴れ 鷹女
形容詞の例句としては印象深いけれど『馴れ』が気になる。
係助詞ぞは連体形で結ぶので、下二段活用の馴るは馴るるとなる。已然形を使うなら瞳にこそ馴るれでなければならないが、『ぞ』を省いて瞳に馴るるで良かった。鷹女は意図的に混乱へ誘っているのだろうか。
さみしさの種無柿を食うべけり 鷹女
この食うべけりも変調で、『べし』は『べき・べけれ』と活用するので文法的に解決できない。もしべかりけりの誤記なら、『食べておくんだったわ』とでも訳せます。
さみしさに負くまじ種無柿を食ひとしたら、嫌われちゃいそう。
我家の柿はまだ食えないけど
熟柿かな避難解除の村に入り
【格助詞に】
これが難物で、使い方によっては十七文字全体が散文臭くなったり、切ったつもりが切れなかったり、使い易いけれど悩ましい。
「俳句を捻る」を端的に示す言葉と思っています。
麦飯にやつるる恋か猫の妻 芭蕉
『に』で切って、猫の妻が恋に身を焦がしていると解釈する。終助詞「か』が妖しく切っているので本当は猫の妻ではなく自分かもしれない。
でもそんな状況下に「自宅で食べる麦飯のなんと味気ないことか」って芭蕉が言うかな?
『に』を切字として働かさない例
のうれんに東風吹くいせの出店哉 蕪村
下五の『哉』で強く切れるので、哉が受ける全体が飲み込まれて『に』にはその気が有りません。
蕪村を追加
夕東風に切り口白し竹の束 龍男
白しと終止形を見せられると、『夕東風に』では切れない。
竹の切り口はきっと白いのでしょうから、夕東風に切り口白き竹の束とすれば分かりやすく夕東風にで切れる。
春風にこぼれて赤し歯磨粉 子規
これも『赤し』と形容詞終止形が来ているのでここで切る。
「突然の春風が歯磨き粉をぶん播いてしまった。掃除をしようと改めて見つめるとその歯磨き粉のなんと赤い事か。」
春風やこぼれて赤き歯磨粉と切れを働かせると、赤が埋もれてしまう。
赤きかな春風こぼす歯磨き粉 歯磨き粉がこぼれたくらいで上五に『かな』はないよ。
春風に力くらぶる雲雀かな 野水
偉大なる『かな』の前では『に』素直にならざるをえない。
『に』は単純に対象を指しているので『と』と言い換えても同じ。
雲雀は春の疾風を舞い上がらんとして春風と力比べをしている。
雲雀かな力比べを春風と 秘め事が無さ過ぎ。
たんぽぽに東近江の日和かな 白雄
『たんぽぽに』で切りたいが、これも問答無用の『かな』が居ますから切れないな。
琵琶湖の湖畔に居るのかも。
引く汐に遅れ蛤走りけり 莵絲子(としこ)
『けり』にも遠慮する『に』。
注;ネナシカズラ(大菟糸子)の種を生薬・ 菟絲子 と呼ぶそうな。
走るかな恋の引汐追いかけて いやいや走らないな、追えばさらに逃げるし
【終助詞かな、やの仲間か、よ】普通に『や』は多いので省略。
毎年よ彼岸の入に寒いのは 子規
「母の詞自ら句になりて」と詞書がある。
終助詞『よ』の切り具合がはっきりしないので、つまり感動の色合いが不鮮明ないので、俳句と言えるかどうか。子規の親孝行と思えば親しみは湧く。
我がためか鶴はみのこす芹の飯 芭蕉
終助詞『か』で切れて、鶴は飯を食み残してくれたんだと。
よく分からない句は談林派の影響下にあると思ってまず間違いないけど、どうなんだろうな。
知識で遊ぶ句座なら参加したいくらい興味深いけど、付いて行けなさそう。
(動詞等は次回に)