本日は何回目かの術後検査の初日で、通院の電車とバスとで計1時間半の間車窓の都会を眺めながら切れ字『かな』について考えていました。

早起き人間には病院に到着してもドアは開いていないので、隣接の公園を歩き回りながらまた検討しました、楽しい。

 

散策後病院に向かう小径には銀杏(ぎんなん)が落ち始めていました。

以下画像は時間つぶしに散策した公園です。

 

銀杏に今日の検査を告げ口し

 

これが俳句かと自問すれば、『に』が切れ字として働けば俳句と結論しました。

だからどうだかはワカランですが。

 

先だってのブログ句会は上五を『や』以外で切るがテーマの一つでした。

私は愁思秋思かな大阪の街よう捨てんと出しましたが、同じように上五を『かな』で切った句がありました。

よっ同志!ってこともないですがその試みに共感はあります。

 

 

良夜かな塩鶏皮を串に焼く 静可愛 とチャレンジ精神が俳句として実りましたね。

もしかしたら鶏皮を焼くお仕事かもしれませんが、私は家族のために脂っこくて面倒くさい鶏皮をせっせと串に刺し、形と数を整えたら焼き始める主婦の日常の生活を想像し、それを家族で召し上がる夜を良夜と言い切る心に一票を投じました。

良夜は季語としては十五夜であったり月明りの夜を指すとしても、の文字が本来持つ意味やニュアンスは変わらず居心地の良い夜を過ごされたのです。

 

 

さて、切れ字『かな』は断定や念押しであり、発見や気づきの『けり』と作句上の使われ方は似ていますが意味は違う。

『かな』はその直前の言葉を強調して「すげえだろ!」と凄む味わいがあります。平たく言えば「ほらっ!」。

 

好きな蕪村の秋の『かな』と『けり』の句をみてみます。

四五人に月落ちかかるをどり哉  

いつまでも踊ってる人がいるんだよ、ほらっ!

いつまでも踊ってる人がいるんだよ、すげえだろ!としても同じ。

山は暮れて野は黄昏の薄哉   

夕暮のグラデーションの中に薄だよ、ほらっ!

 

対して『けり』では作者は気づいた世界に「~だなあ」と個人的に酔っているワケで、いわば自分の世界に浸っているので、周囲の者は沈黙へ誘導される。

月天心貧しき町を通りけり 

名月に照らされる貧しい町をオレは通ったんだよ、わからねぇだろうなぁ!

鹿啼きてははその木末あれにけり 

鹿が啼く頃、ははその梢はあれ(紅葉)するんだよ、知らねぇだろうなぁ!

 

 

なので、『かな』も『けり』も座五(下五)に置かれることが多い。上五にあると頭でっかちで俳句的には混乱している状態ですから。

 

『ほらっ』と最初に言ってしまったら残り12文字は言い訳するか、なぞなぞを書くか、句の面がべたべたしがち。

そこを抜けだす努力が上五に『かな』を使う醍醐味なのだな。

 

 

ならば我が努力は実ったのかと自分の句を再吟味してみると、流行歌から12文字をごっそり引きずり込んだ悪行は別として、ゆるみは感じないし、因果関係を陳述していないし、口語の臭みもない。

 

などと自分に優しく他人に厳しい性格が顕わになってきたので、検査の後は都会巡りもせずにとっとと帰りのバスに乗りました。