日本が倭(わ)であった頃の推古8年(600)には初の遣隋使が派遣されたらしく、遣隋使船は大阪の住吉大社から出発し難波津を経て瀬戸内海へ出たそうな。

ちなみに『日本』という名称が使用されたのは遣唐使になってから。

 

渡海船は箱型の船で、いわば川船のような危なっかしい船でした。

(これは遣唐使船の復元模型)

二本の帆柱に二枚の帆を掛けたら船は捻じれて破綻するはず。

どうやら二本の柱を繋ぐように帆を掛けていたらしい。それなら風を受けて前進できそう。

 

この船は五島へ向かわずに倭の支配領域を突っ切るように半島へ向かい、済州島の北側を通過して半島沿いに回ります。

このルートは北路と呼ばれています。

 

陸地を見ながらを恐る恐る進んだのでしょうね。

 

遣唐使船は北路は半島から早々に離れていますが、まだ済州島の北側を通っています。

それでも間もなく南路を航行することになったのは、済州島周辺が島嶼豊富で大型船には座礁の危険があったからかもしれません。

 

 

済州島の南側を通過する南路へ変更された理由は結局は船が強固になり、荒ぶる外洋である東シナ海に耐えられるようになったからですが、唐の時代に開発された竜骨が使われるようになったからかどうかは私は知りません。

 

渡海の第三のルート南島路には九州西岸沿いを南に下ってから、奄美大島から西の杭州を目指すか、さらに沖縄まで下って北へ上がりながら西へ進むコースとありました。

 

長らくの疑問は航路のうちの南路が済州島から離れて示されることが多い事でした。

こんな危険なルートを竜骨を持たない船が走るかなと。

 

 

灯台さえない時代に航海術の基本は天文、星座と島影です。

済州島には標高1947mの漢拏山(はるらさん)が東シナ海の最高峰として聳えています。

 

時代は下りますが1325年鎌倉幕府は建長寺船を派遣します。

禅僧中厳圓月は「将に白水洋に過ぎらんとして、暮に(たむ)()(ほとり)に到れば、手を挙げて尊者に(ゆう)し、相望むこと淥漪(ろくき)を隔つ」と詠んでいます。

 

つまり日本から派遣された建長寺船は日没近くに耽羅つまり済州島近くに来た時、中厳は「尊者」に揖礼(ゆうれい)し、淥漪(清き波)を隔てて遥拝したと詩に残しました。

 

ここで記載された尊者とは多分岩山で、漢拏山の頂上の南西に尊者庵というお寺があり、一帯には火山性の奇岩が立ち並び、遠くからは人影つまり尊者の影に見えたとか。

 

尊者を拝むには島の南側を通らねばならないので、これが南路です。

つまり、このルートは済州島には上陸しないもののランドマークとして島影を確認しながら南を通った後、一気に大陸を目指したワケです。

 

なので、しばしば図に示される南路は五島から西へ向かうはずが、いわば南西へと東シナ海に入り過ぎているってのが私の言いたかったこと、割ともたついてますけど。