最近某女がブログを休むと聞いて、咄嗟に作った俳句に

『さよならはダメと手を引くをどりの輪』があります。季語は『をどり・踊』 

今夜は 俳句の話でも。

 

(さいたま市上空の秋)

 

「朝顔に釣瓶とられてもらひ水 加賀千代女」の俳句の「に」は いろいろ話題になりますが

「朝顔に」を「朝顔や」と切れ字を使って切ってしまうと 俳句の香りはがらりと変わります。

 

前者ですと「もらい水」が主題テーマな気分で、もらい水の原因は朝顔なのよ ってな気分。

後者の「朝顔や」ですと「見て見て朝顔よ、蔓が絡んで汲めなくて朝っぱらからもらい水になっちゃった」のように、

朝顔ともらい水との間にキレ、つまり空間ができます。

この空間こそ俳句の真骨頂で、この隙間があるゆえに、十七文字は躍動し読み手に自由な感動を引き出すことになります。

 

(帰宅後暗くなって オシロイバナが満開)

 

 

そうではありますが、

個人的には「朝顔に」の方が大好きで、こちらのたおやかな俳句を眺めていると柳腰のいい女が じわっと見えてきませんか?

 

で、私の句『さよならはダメと手を引くをどりの輪』には切れ字がありません。

しかし、「引く」で切れています、『をどりの輪』が『手を引く』ワケじゃありませんから。

 

(着飾ったような彩で)

 

 

 

蕪村の名句に『四五人に月落ちかかるをどりかな』があります、意味は「盆踊りも夜更けて踊る人々もだんだん少なくなって来た。もう月も落ちかかっているのに、まだ何人か踊っているよ」なんですが、それは小学校の授業で習うレベルの解説。

 

実際はみんな恋の相手をみつけて、いわゆる夜這いの類で、散り散りになって行ったのに、お気の毒ってところ。

歌垣以来の伝統で、この国では 辻にはその自由があったのでした。

終戦後も地方には残っていたらしく、GHQが禁止令をだしたそうな、まぁ大きなお世話でしたね。

 

(オシロイバナがこんなに自己主張するとは知りませんでした)

 

 

盆をどりは神への感謝で、感謝が済めば後は自由。

道祖神がしばしば性を象るのはそのためですよね。

 

(雄蕊も美しく健気)

 

好きな映画の一つに「灯台守の恋」がありますが、

語り部となるお嬢さんを身籠ったのもブルターニュの灯台守の住む村のカーニバル、歌垣と同じ。

 

で、切らずに一気に行くなら 『さよならはダメと手を引くをどりかな』と『をどり』に切れ字『かな』をくっつけます。

この『かな』はヘビー級の切れ字で、これに食いつかれたら逃げられません。『をどり』で文句あるか!みたいにね。

 

なぜ 蕪村を真似て「をどりかな」としなかったかと言うと、別に一緒に踊りたいわけじゃないから。

つまり、行くなよと『手を引く』のだけれど、それとは別の位置に輪になって踊る人たちがいる。

その輪がwwwネットにもあるかもしれないし、ないかもしれない、わからないです。

 

 

この句の自慢は『ダメ』とカタカナを使ったところで、『駄目』とも『だめ』とも言ってない。

『ダメ』にはどこか口語的な近さを 自分は感じています。

 

最後に『朝顔に釣瓶とられてもらひ水』が俳句として成立している理由は、『もらひ水かな』と十七文字の最後に切れが正しく来ている(切れ字が伏せられている)から。