朝から 与謝蕪村さんの 『鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな』が 頭から離れず、思うところを書き出してみることにした。
とばどのへごろつきいそぐのわきかな
季語;野分 季節は秋 9月初め頃
この句で蕪村が思い描いた景色は、保元の乱勃発前夜とする意見も多いようだが、どうもそうは思えない。
鳥羽殿とは鳥羽上皇ではなく、伏見の鳥羽離宮を指している。
鳥羽殿は白河上皇が 退位後余生?を送ろうと作り出した離宮だが、次の鳥羽上皇の時代に完成する。
広大な敷地内には、貴族の別荘地もあったし菩提を弔う施設も多くあったので、
そこ召し上げてしまったのだから反感も買ったようだ。
鳥羽天皇安寿院陵
保元の乱とは 崇徳上皇と藤原頼長の構える白河北殿に、
平清盛を大将として源義朝や源義康らが保元元年1156七月十一日払暁に襲い掛かった軍事衝突のことである。
メトロポリタン美術館所蔵の保元平治の乱合戦図屏風
学芸員に聞かないと なにがなんだか分かりません。。
この句のように 仮に五六騎がどこかに駆け付けるとしたら攻めかかられる側の斥候か密通者だろうが、
清盛が戦闘態勢に入ったと知らされたら、戦力的に敵の何分の一かであっても応戦の準備ができたはずなのに、
実際は数時間で総崩れになってしまった。
院御所が血みどろの戦場になるとは、焼亡しなかったら、彼らは『穢れ』におののいたことだろう。
乱の攻撃側は後白河天皇だが、彼は崇徳上皇とともに白河法皇の養女(藤原)璋子が生んだ鳥羽法皇の皇子で、二人は同母である。
異母兄弟がたくさん居て権力闘争を繰り広げた時代に、同母の兄弟はよほど近い関係であったろうに、あるいはそれゆえか最悪の事態になってしまった。
頼長は戦死、崇徳院はあり得ないはずの配流処分、最後は暗殺されたとも。
頼長は日記『台記』に自身の男色について赤裸々に書いている。当時の日記は秘めたるものではなく備忘録のような性質を持っており、いつか公開されると承知しているにもかかわらず、日記中の『景味を覚えた』には ひっくり返った。
後白河院もそうですが、この時代は 男色は隠すべきことではなかったようで、近習や高位の例えば近衛基道も摂政にまで到達した。
母である璋子(女院は待賢門院たいけんもんいん)は かなり屈折した人生を送って来たので、もしかしたら 兄弟の死闘にはその影響もあったかな。
この時 崇徳上皇方が集結していた場所は 白河北殿で河東、ざっくり言えば三条の鴨川の外。
この時後白河天皇は寝殿造りで有名な東三条殿に居た。
ここは摂関家の拠点で、藤原頼長と崇徳上皇の軍とが集結謀議した施設であったが、頼長の宇治滞在中に後白河天皇は接収してしまった。
接収するのもされるのも それが可能な政治システムが 21世紀から振り返ると不思議。
話題の鳥羽殿は伏見にあった離宮なので、保元の乱の戦場からは遠い。
東三条殿からは白河北殿の火の手は見えたそうで、かなり狭い範囲での戦乱であった。
では 鳥羽殿とは何処か?
保元の乱で勝者の大将である清盛は、後白河上皇vs二条天皇の父子対立の渦中を泳ぎ渡り、両者から軍事力を頼りにされるようになる。
この魑魅魍魎の跋扈する宮廷を泳ぎ渡る能力が 彼の政治家としての真骨頂。
まもなく若き二条帝没後、後白河上皇と清盛の妻の妹慈子との間に生まれた子供が高倉天皇として即位してからは、両者は政治的に提携し表向きの関係は良好だが、面従腹背が九重の習いのようで 致し方ない。
清盛が後白河上皇に贈った蓮華王院1165完成
上皇は出家1169して後白河法皇となりながら、慈子の死後に延暦寺と法皇とは対立してしまう。
法皇は清盛を叡山に出兵させようとするが、上皇周辺の平氏打倒の謀議が漏れ1177実行されず、やがて清盛の軍事クーデター1179によって 院政は停止へと至る。この間の詳細は省略。
この時 法皇が幽閉された場所が 鳥羽殿である。
蕪村はこの鳥羽殿を思い描いたのではないか。
鳥羽殿の安楽寿院(建物は近世以降の再建)は今日まで法灯を伝えています。
安楽寿院には鳥羽天皇陵の他に 近衛天皇南陵もある
で、要するに個人的にはですが、『後白河法皇幽閉』し、清盛娘徳子の産んだ子『安徳天皇を即位』させ、『高倉上皇』には形式的な院政を行わせ、いよいよ『武家政権の誕生』となるこちらの事件がテーマではないかと考えています。
後白河法皇を排除して武士の時代の幕開きですから、馬上の五六騎は『時が来た』と興奮していたに違いない。
ただ歴史的には、源頼朝の登場するまで武士の世とはならなかった。
俳句に戻りますと、季語『野分』が俳句全体を強く覆っていることがわかります。
平時は穏やかな草原が 野分によって分断されているのです、真に象徴的。
野分は台風よりむしろ風の強い突風系の風台風で 世界をなぎ倒す勢い。
以上 もやもや解消、これで落ち着きました、ぴったり。
俳句の鑑賞は 読み手に委ねられるものですから、着地完了 気分良好です。
『野分』とか『草いきれ』とかの季語は、自分の中では蕪村と強く結びついてしまい、読むときも詠むときも まったく不自由だ。
もちろん、蕪村にも『客僧の二階下り来る野分哉』と あまり面白くないものがありますが。