ようやく歌詞の話です。

本歌をまずお示しし、そこから雑談の後、本歌の内容と歌詞を書きます。

巻は万葉集の巻で、次が便宜的に充てられた通し番号です。そして作者名。

 

本歌;来むといふも来ぬ時あるを来じといふを来むとは待たじ来じといふものを

巻四 五二七 大伴坂上郎女

 

この歌は言葉遊びのような同語反復の面白い歌です。

『む』『ぬ』『じ』の三種類の意志が計5回出てきます。

 

贈り先の藤原麻呂は不比等のご子息4人兄弟(藤原四氏)の一人。

大伴坂上郎女は才女でかなりもてたようですが、落ち着いて乱れず 大人の恋の気分があります。

 

ネットで拾ったので、描かれた人が誰かは知りません、雰囲気だけでも。

 

坂上郎女は「令和」で話題になった旅人の妹(異母)。

娘の大伴坂上大嬢(おおいらつめ)は、旅人のご子息家持(百人一首で有名な)の従妹になりますが、すったもんだの後(多分)正妻となっています。

家持は越中の国の長官として赴任する際に 大伴池主を掾(じょう・次官の下)として同行させます。

この二人は恋愛関係にあったらしく、二人には 男女でやり取りするはずの相聞歌が残っています、余計な話ですが。

 

現代語訳;『来るって言ってたのに来ない時があるからね、あんたは。だから 行かないよって言ってる人を 来るかもしれないとハラハラ待つのはご免だわ』

妻問い婚の時代ですから、女性はひたすら待ったのですが、それをこの戯れ歌に仕立てたお遊びかな。

 

歌詞;会いたいと言いつつ逢いに来ぬ人を 来ぬと言う夜も来るかもと待つ

   歌の中では待たないわと言わずに、来るかもと待たせてしまいました。

 

 

本歌;君恋ふる心は千々に砕けれど一つも失せぬものにぞありける 

和泉式部

千と一との対比が印象的ですね、それに その後の奔放な生き方に比して むしろ純真さを感じます。

昔から和泉式部さんの大ファンで、その生きざまは真似のしようもありませんが、歌は直接心に響きます。

 

彼女のデビュー作?『冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月』では 素直な宗教心が歌われています。

冥きは煩悩の無明であり、次の冥きは心の迷い。山の端は山岳信仰の名残で、そこに昇る月こそ これから自分を導いてくれるはずの宗教指導者の象徴か。

 

『夜道から夜道へ曲がる秋の雨』 

冥きの気分をパクって、このような俳句を作ったことがあります。

暗い夜道からさらに暗く細い道へと入っていく、冷え冷えとする秋の雨の降る中を。

 

現代語訳;『大好きなあなたを待ち続けているのに、一向に来てくださらない。だから 心はぼろぼろ、幾千ものかけらに砕けてしまったわ。でも悔しいことに そのかけらの一つ一つが大切で ずっと抱えているの』

こんな素敵な女性を放っておける男が この世にいるんだろうか?

『ぞありける』は係り結びの関係で、軽い強意の他に意味はない。

 

歌詞;恋しさに心は千々に砕けても 一つ一つにあなたが居るの

  いきなり甘えさせてみました。

 

ここまでが、♪恋の炎 の起です。奈良時代の大伴坂上郎女と平安時代の和泉式部とは活躍した時期は二百年離れていますが、女性の存在感に差はありませんね。