こんにちは。
今回は、人に関する「障害」について、感じたことを書かせていただこうと思います。
ASD、ADHD、発達障害…
「お互いの特徴や違い」を認識するために、僕たちは、言葉を駆使して、相手のことを定義づけている。
確かに、「お互いの違い」を知るために、言葉で定義することは必要かもしれない。
でも、「障害」という言葉で、相手のことをくくるのは、果たして適切なんだろうか?
もっと言えば、そこに愛はあるんだろうか?
「障害者」「障碍者」という定義も、ある一定の条件に合致しない相手を一方的に、そういう枠組みに当てはめているだけ、という氣がするんです。
・国家運営側にとっての都合のよさ
・社会の効率性
・経済合理性
・もっと言えば「自分の都合」や「利己主義」
を追求した末のある種の「社会不適合者」の烙印を相手に押しているニュアンスを含むような氣がするのは、氣のせいでしょうか。
それとも、自分の意識の中にも、そういう部分があるということの顕れなのでしょうか。
何と言ったらいいのか、
僕はいわゆる「健常者」のくくりに入るわけではありますが、既に亡くなっている母は、生前、くも膜下出血を発症し、以後、亡くなるまでの数年間は、 「身体障害者」「身体障碍者」 でした。
母は、建設会社の経営者でした。
温かくも、男勝りで行動的な氣性でしたから、男性優位とされる建設業界・現場においても、バリバリ仕事をこなしていました。
ですが、あるとき、くも膜下出血を発症し、一命は取りとめたものの、下半身不随と半身不随の後遺症が残り、声も発することができない状態になり、寝たきりの生活となりました。
そのため、健常者のように、歩いたり、従来のような労働生産活動に従事できないわけです。
でも、かといって、違いといえば、それだけ。
従来のように、歩いたり、労働生産をしたりできないだけ。
僕にとっては、
・「健常な母」だろうが
・「身体に障害がある母」だろうが
どちらも、大切でかけがえのない存在であることには違いがないんです。
そんなときに、ふと、浮かぶわけです。
「『働かざる者、食うべからず』
という言葉は、はたして真理なのだろうか?
そこに愛はあるのだろうか…?」
と。
「『健常者』のように歩けない母」
「『健常者』のように労働生産のできない母」
「『健常者』のようにふるまえない相手」
を社会の端に追いやってしまう今の風潮…
(といっても、その風潮も、僕たち一人一人の意識や行動が集積した結果であるわけですが)
それに対して、何となく、疑問や違和感を感じるのです。
「今のままでいいんだろうか…?」と
「知的障害者」「精神障害者」「身体障害者」とされる人たちは、「健常者」とされる人たちに対して、潜在的に、強いメッセージを伝えているんじゃないかという氣がしてなりません。
「あなたの心は傷付いていますよ。
あなたは『魂に障害』を負っていますよ。
見て見ぬふりをしていませんか?」
「そのことに氣付いて、あなたが本氣になりさえすれば、
『心も魂も健常に』
なれますよ。」
と。
だから、
[理性、知性、論理、理屈、思考、効率、合理性]
という括り(くくり)だけで、相手や物事をとらえてしまうのは、
【自分にとって、大切な何か】
を見落としてしまう可能性があるんじゃないかな…と感じるわけです。
僕も、亡き母に対して、生前、もっと愛を示すことができたんじゃないかな…と。
そこから、何か学ぶ必要のあることがあるんじゃないかな、とも感じるので、これからも自分と向き合っていこうと思います。
7日遅れの母の日に
僕を愛してくれた母へ愛を込めて
僕を生んで育ててくれてありがとう
それでは、毎度のことではありますが、以下のようになさっていただければと思います。
(1)次のように感じた内容は、受け入れる
「そうそう」
「そのとおり」
「分かる分かる」
「だよね!」
「やはり」
「納得」
「しっくりくる」
「そういうことか!」
(2)次のように感じた内容は、受け入れない
「んん??」
「モヤモヤ…」
「ちょっと何言ってるか分かんない」
「支離滅裂」
「んなわけない」
「明らかに自分の中の真実と一致しない」
(3)次のように感じた内容は、一旦、脇に置いて保留する
「へ~」
「ほ~」
「ふ~ん」
「ポカーン」
「噓か誠か、今のところは判断できない」
「一概に否定はできないかな~」
「そういうこともあるのかも」
「一理ある」
それでは
みなさまの最高・最善
みなさまの天命が全うされますように
最後までお読みくださりありがとうございます!