去年のバレンタインの記事がある
死にたい
けど思い出ですよね
今はお互い別の道を歩んでるしね(笑)
最近は幸せです
この幸せいつか崩れちゃうんだろうけど
崩れるまで楽しむ
今まで付き合ってきて
うちが全部悪い思い出してしまったから
今回は絶対いい思い出にする
久しぶりのブログ更新でーした!!
去年のバレンタインの記事がある
死にたい
けど思い出ですよね
今はお互い別の道を歩んでるしね(笑)
最近は幸せです
この幸せいつか崩れちゃうんだろうけど
崩れるまで楽しむ
今まで付き合ってきて
うちが全部悪い思い出してしまったから
今回は絶対いい思い出にする
久しぶりのブログ更新でーした!!
ロナルド・レーガン、ジョージH.ブッシュ、ビル・クリントン - これらの人たちの共通点は何だろう?
当ててみて下さい。
その通り!
彼らは、合衆国の大統領だった。
しかしながら、それだけではない。
彼らに共通する別の点があるのだ。
彼らは皆左利きなのである。
あなたも左利きだろうか?
もしそうだとしたら、あなたは左手を使うことを好む何百万人もの人々のうちの1人なのだ。
もし、人々に右手を使用することを強いる社会がなければ、さらに何百万人の左利きの人がいるだろう。
左利きを理解する為には、私たちは脳を見なければならない。
人間の脳は、左と右という2つのサイドから成り立っている。
脳の左半分は体の右側をコントロールし、右半分は左側をコントロールする。
それらは体の両側をコントロールする為に協力し合う。
しかしながら、右手の人の場合は左半分がより強く、一方左利きの人の場合は右半分がより強いのである。
最初の書法は右から左だった。
しかしながら、紀元前5世紀頃にギリシャ人が左から右へと書き始めた。
なぜだろうか?
彼らは「右」は善、そして「左」は悪だと信じていた為、彼らにとって「右へ」書くということは「善」のほうへと移動するという意味だったのだろうか?
誰にも分からない。
何世紀か前、カトリック教会は左利きの人々が悪魔の使いだといった。
カトリックの学校は何年もの間、左利きの生徒たちに右手を使用するよう強いた。
数世紀が過ぎるにつれ、ますます多くの人々が読み書きをできるようになった。
より多くの子供たちが書くことを学ぶにつれ、より多くの左利きの子供たちが右手で書くように強いられた。
しかしながら、アメリカでは1930年代から左手で書くことを子供たちに許可し始めた教師もいた。
今日、ほとんど皆がそうすることは平気だと考える。
左利きの人々にはまだいくつかの問題がある。
より多くの左利きの人々は、文字や単語を左右逆に見てしまう。
例えば、彼らはdをb、wasをsawと呼んでしまうかもしれない。
また、書きながら左手で自分の書いた文字を汚くしてしまう傾向がより強いからである。
世に伯楽有りて、然る後に千里の馬有り。
千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。
故に名馬有りと雖ども、祇だ奴隷人の手に辱められ、
槽櫪の間に駢死し、千里を以て称せられざるなり。
馬の千里なる者は、一食に或いは粟一石を尽くす。
馬を食ふ者は其の能く千里なるを知りて食はざるなり。
是の馬千里の能有りて雖ども、食飽かざれば、
力足らず、才の美外に見れず。
且つ常馬と等しからんと欲するも、得べからず。
安くんぞ其の能く千里なるを求めんや。
之に策うつに其の道を以てせず。
之を食ふに其の材を尽くさしむる能はず。
之に鳴けども其の意に通ずる能はず。
策を執りて之に臨みて曰はく、「天下に良馬無し。」と。
鳴呼、其れ真に馬無きか、其れ真に馬を識らざるか。
世の中に伯楽(馬を見分ける名人)がいて、それでいて千里を走れる名馬が見出されるのである。
千里の馬というものはいつもいるのだが、伯楽はいつもいるわけではない。
よって名馬がいたとしても(それを見抜ける人がいないために)ただの奴隷人の手によって粗末に扱われ、
ほかの駄馬と一緒に首を並べて死んでいき、千里を走る名馬と誉められることがなく終わってしまうのである。
そもそも千里の走る名馬というものは時には一食に穀一石を食べ尽くしてしまうものである。
しかしながら馬を飼う人はその馬が千里を走る能力があることを知って育てているのではない。
だからこの名馬は千里を走れるとしても、食物の量が不十分なので
力を充分に発揮することができず持って生まれた素質の良さを表に出すことがない。
ではせめて普通の馬と同じように有りたいと望んでもそれも駄目である。
どうしてその馬の千里を走ることを求められようか。
(飼い主は馬を働かせようと)鞭を使う際に名馬に対するような扱いをせず、
育てるのにその才能を存分に発揮させられることもできない。
馬は鳴いて訴えてもその思いを飼い主に伝えることもできない。
飼い主はむちを手にして、名馬に向かって嘆いてこう言う、「この世には優れた馬はいない」と。
ああ、いったい本当に名馬がいないのか、それとも本当に名馬を知らないのではないか。