「中絶は人殺しだ」
自分自身に、何度も何度も問いかけています。
生命を途中で諦める決断をした私は、そして今後、体外受精などで生命を選択しようとしている私は、一体何者なのか───。
この消えない罪悪感と、これからどうやって生きていけばいいのか───。
自分を正当化したいわけでも、誰かに「悪くないよ」と慰めてほしいわけでもありません。ただ、この重みとの付き合い方のヒントを探したくて検索を重ねる中で、2つの記事に出会いました。
今回は、その記事を読んで感じたことを、はなそうと思います。
仏教が考える中絶と「罪」の足し引き
ひとつ目は、テーラワーダ仏教における中絶の捉え方についての記事でした。妊娠した瞬間から、その生命を一人前の人間として扱う
では、人工的に受精させた受精卵は人間ではないのか。どこからが「生命」なのか。受精卵も命には違いないけれど⋯と考え出すと、本当に難しく、胸が詰まります。並んだ受精卵を見て「さぁどれにしますか?」と選ぶのは、「生命」の選択ではないのか⋯。
記事の中で、特に心に刺さった言葉がありました。
どんなことがあっても命を守ってあげるという勇気がなかったのです。自分のことを、何の罪もない弱い命よりもかわいいと思ったからです。
この言葉には、ぐさりと胸を抉られました。言い訳のしようもない事実だと感じたからです。
私には、「病気のある子の生命を守ってあげる勇気がなかった」んです。でもそれは、「病気のある子どもを産んで、育てた」経験をしているから⋯なんて、言い訳です。
一方で、罪との向き合い方についても書かれていました。
中絶の経験がある女性は罪を拭えますか。自分に子供がいるならばその子供を大事に育てることで悩むことを忘れられます。全ての生命に対して、慈しみの気持ちを育てることで、償いになると思います。
これを読んだ時、以前、第2子が闘病していた頃の出来事を思い出しました。
当時は心に余裕がなく、元気に過ごしている第1子(上の子)に対して「下の子はこんなに頑張っているのに、なんであなたは出来ないの?」と思ってしまったり、街で見かける妊婦さんや健康そうな赤ちゃんに対して憎しみすら抱いてしまったりしていました。完全に八つ当たりですよね。
当時は心に余裕がなく、元気に過ごしている第1子(上の子)に対して「下の子はこんなに頑張っているのに、なんであなたは出来ないの?」と思ってしまったり、街で見かける妊婦さんや健康そうな赤ちゃんに対して憎しみすら抱いてしまったりしていました。完全に八つ当たりですよね。
【上の子は、第2子とは違う】
【あの人のお腹にいる赤ちゃんは、私が会いたかったあの子ではない】
【あの子どもは、私の望んだ子どもとは違う】
当時はそんな当たり前のことすら分からなくなっていました。だからこそ、「すべての生命を慈しむ」という言葉が響きました。
失った命への申し訳なさを抱えながらも、目の前にいる大切な存在や、これから関わる命を慈しんでいくこと。それが私にとっての償いの一歩なのかもしれないと感じました。
医療と「生命の選別」の狭間で
ふたつ目は、出生前診断や中絶に関わる医師が、障害者殺傷事件の犯人との仮想対話を通して自問自答する記事でした。
【識者の眼】「出生前診断と人工妊娠中絶を行う私と植松聖との仮想対話」中井祐一郎
その問いに対する明確な答えや、免罪符のようなものはどこにもありません。
医療という現場で命の選択に関わる専門家でさえ、葛藤から逃れられないのだと知りました。どれほど理由づけをしようと、医療という言葉で包もうと、人工妊娠中絶が「生命を絶ったこと」である事実には変わりありません。
私を担当してくれた医師は、どう思っていたんだろうか。どんな思いだったんだろうか。
罪悪感を抱えて生きていく
「中絶は人殺しなのか」
その問いに対する明確な答えや、免罪符のようなものはどこにもありません。
仕方が無かったと片付けてしまえばいいのだろうけれど。自分の都合で命の決断をしたという罪悪感が消えることもないし、消してはいけないのだと思います。
「罪悪感があるから自分を責め続けて生きる」のではなく、いま目の前にいる家族を大切にして、周りの命を慈しみながら、精一杯生きていくしかないのでしょう。⋯とか何とか言っちゃって、「美談にして何言ってんだよ」と思う自分も居ます。
まぁ、答えの出ない問いを抱えながら、それでも私自身と向き合って生きていこうと思います。生命ある限り、生きていくしかないんだから。