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本日の活動 

 

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◆ 久しぶりにお会いしたM先生。

 

本質的な話の壁打ちをできる貴重な先生です。

本音と建前と義務についての話。

使い分けるのではなく、

統合したところでの対応が王道ですね。

 

◆ いつもお世話になっているT社の総務の方とお話。

 

新しいことに取り組みつつも、

一つ一つを確実に押さえていく慎重さも同時に求められます。

このバランス感覚が素晴らしいです。

 

◆ いつもお世話になっているK社長とお話。

 

事業の見通しは運も大きく影響します。

思い切って投資したものが、

その投資のプロジェクトが終わった後も、

さらに使えることが起きました。

 

これは想定外です。

 

◆ オンラインの学びを1つ。

 

◆ 読書。

 

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本日のよきこと 

 

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◆ 新しい環境に入って、

思いっきりやり込んでいくことを、

心地よく感じています。

 

もっともっと時間が欲しくなりますし、

そのためにさらに効率化を求めて、

 

日々、昨日より1秒でも稼ぎ出せるように

意識しています。

 

おそらくこれがすべての活動の原点なのでしょう。

良い気づきを得られています。

 

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本日の学びは、 

 

 『自分の存在とは自由の存在』です。 

 

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◆ 以前、何度か考えてきたテーマがあります。

それは「社会」と「自分」の関係です。

 

【00079】本質的自分

【00086】古代からあった本質的自分

【00323】自分と社会の距離感

【01379】社会性と産業化と本質と

【01692】自ら分かれて自分也

【00513】「相対」と「絶対」

【00514】「相対」と「絶対」2

【00515】「相対」と「絶対」3

 

少し振り返ってみましたが、

ブログを書き始めた当初から感じていることがありました。

 

◆ 自分の考えをブログで書き出していくと、

自分自身を客観的に見る視座が得られます。

 

最近の言葉で言えば、

「メタ認知」 と言うところでしょうか。

 

つまり、自分にとっての無形物である自分が、

目に見える形で存在し始めるわけです。

 

「鏡を見れば見えるじゃないか」

 

まぁ、物理的にはそうかもしれません。

それはおそらくずいぶん幼い頃から見ていて、

しかし、見えていなかったのは、

物理的な自分では無いわけです。

 

物理的な自分も自分ではありますが、

今ここに存在しているのは、

理性的に考える自分としての自分です。

 

つまり、目に見えない自分なわけです。

 

◆ その目に見えない自分が、

人類が開発した非常に優れたツールの1つである「言語」を使うことによって、

目の前に、突如として現れるわけです。

 

頭の中で考えていることと、

目の前に言語として表現してみることの違いは、

やったことがある人でないとわからないでしょう。

 

頭の中で明確に考えていると思っていることが、

言語に落とそうと思った瞬間に、

なかなか形にならないわけです。

 

少し話がそれたので、元に戻します。

 

◆ 社会と自分。

 

言語を使うことによって、自分が見えてくると、

物理的に視覚的に把握している外の世界と、

自分との関係性に初めて気がつくわけです。

 

そもそも自分は自分をどのように認知しているのか。

そもそも他者と話してわかる自分とは何なのか。

であるならば、自分の目標とは何なのか。

 

そんな疑問が湧いてきます。

 

◆ 今時点の考えを備忘録として残しておきます。

 

認知の形成がどのように行われるか。

言葉が先にあって、そこに自分がくっついていくのか、

自分が先にあって、それを言葉で表現しているのか。

 

前者であると考えています。

つまり、自分の存在は、ある種の虚構である。

これは、かのユヴァル・ノア・ハラリ氏の「サピエンス全史」で語られている定義です。

 

社会構成主義にも同じような要素があると考えています。

 

◆ ちょっとした実験をしてみるとよくわかります。

 

それは、自分が自分が住んでいる都市の市長になったと仮定します。

まずはYouTube等で市長の演説を3つほど聞きます。

その上で目を閉じて、自分ならどうするかを考えます。

それを紙の上に書き出してみます。

そして、その紙の上に、書き出したものをポケットに入れて、

1日過ごしてみます。

 

するとどうでしょう、

昨日まで見えなかったものが見えるのではないでしょうか?

 

◆ これは、自分が市長であると虚構を作り、

その市長であることを、自分自身に言い聞かせるために youTubeをみて、

それだけだと頭の中では忘れてしまうので紙に書いて、

さらに書いたことも忘れないように身につけておく。

 

完全になりきるわけですね。

 

人間は、妄想と、思い込みと、錯覚の生き物です。

ゆえに完全になりきることで、

自分の認知を変えることができるのです。

 

◆ この事実は、いろいろなところに使われています。

 

▼ イメージトレーニング。

オリンピック選手は必ずと言って良いほどやっていますね。

スポーツをやったことがある人なら、1度はやったことがあるのではないでしょうか。

そして、その効果が絶大であることもよくわかっているのではないでしょうか。

 

▼ AIのプロンプト。

人間の思考を模倣していると言われるAI。

そのAIから精度高い回答を得ようとする場合にどのように記述しますか。

「 あなたは〇〇の専門家です。そんなあなたに教えて欲しいです。」

と記述すると、精度が高まると言われています。

 

これなども、AIさんを妄想と思い込みと錯覚の世界で使っている事例と言えるのではないでしょうか。

 

◆ と考えてくると、次に思うのは、どのようにこの妄想と追い込みと錯覚を活用しようかと言うことです。

 

そこで重要になってくるのが、

そもそも自分はどうありたいのか、、、です。

 

自分はどのようなことに感動し、

どのような時に心が震えるのか。

 

何をかっこいいと思うのか。

どうあるならしびれると思うのか。

 

3度の飯よりこれならやり続けれると思うものは何なのか。

100人中99人が反対したとしても自分は反対側に行くものは何か。

その時に大事に思っているものは何か。

 

◆「社会」 とは人が勝手に作り出した造語でしかないと考えています。

 

人が集まって組織となる。

それもその組織が一人格であると考えるのは難しいと考えています。

なぜならその組織には自律神経しかないからです。

 

もちろん、人間の身体がそうなわけで、

自律神経を1つの皮で包んでしまえば、

あたかも1つの意思のもとに動く存在に見えますが、

 

よくよく考えれば思い通りにならない身体こそが、

大きな制約であることに気がつくでしょう。

 

そして、また、この制約があるからこそ、

「人間だもの」の世界観が立ち上がり、

人間としての感動の源の1つが成立するわけです。

 

「 社会」と表現して、

 

あたかも、その全体がどこかに向かっているかのように話をしたり、

あたかも、その全体を統制していくことが正義であるかのように話をしたり、

あたかも、より良い社会を作っていくことが正義であるかのように話をしたりします。

 

しかし、そこに本当の心から震える喜怒哀楽は存在するでしょうか。

結果的に存在する状態にはなるでしょうけど、

そこに至るアプローチは非常に大事であると考えています。

 

社会があって、自分があるわけではなく、

自分があって、社会なる概念があると考えています。

 

◆ 自分の存在とは自由の存在。

 

自分の存在とは、

相対的に存在しているのではなく、

絶対的に存在しているわけです。

 

他者の評価においては、当然、相対的な存在になっています。

それゆえに、社会と称される空間においては、

相対的な価値を発揮したときに評価され、

資本主義においては経済的に潤うことができ、

生命活動を営みやすくなる仕組みになっています。

 

しかしながら、それは絶対的に存在しているとは言えないでしょう。

そして、自分が心から震えている瞬間のその存在は、相対的な存在ではありません。

 

そこに自由は存在しません。

 

自由な存在としての自分は、

自ら分かれて、 自ら虚構構築し、自ら妄想と思い込みと錯覚を発動し、

自らの価値観の中で、喜怒哀楽を100%味わう、自由で気ままな絶対的な存在です。

 

誤解がないように付け加えておくと、

だからといって、絶対的存在のみで存在することを善しとしているわけでもありません。

 

なぜならば、今、ここに存在する意味を考えると、

▼ 個体の保存

▼ 種の保存

▼ 系の保存

を考えるからです。

 

個であると同時に、種であり、系であるからです。

自分がどの立場にあって、

どうあるのが最も心地良いのか。

人それぞれ違うとは思います。

 

個だけを追求することが心地良い人もいれば、

個と種と系のすべてを満たしたい人もいるでしょうし、

さらに違う領域も満たしたい人もいるでしょう。

 

それは自由なわけです。

自分の存在とは自由の存在です。

 

目の前に歩いている人が、

相対的に生きている人なのか、

絶対的に生きている人なのかは、

今日現在の科学技術においては判断することができません。

 

しかしながら、ここは非常に重要であると考えています。

なぜならば、そこに自由の存在としての自分の存在があるからです。

 

現時点での考えです。

 

<まとめ> 

 

◆ 自分の存在とは自由である。

 

◆ 内的側面は誰に束縛されるわけでもなく自分で構成しています。

 

◆ それが外部と交わって社会と言われるものを構成しています。

 

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本日の造語、比喩

 

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「 思考の橋頭堡」

 

久しぶりに考えていることを考えてみて、

それらを集約してまとめてみました。

 

この創造をするにあたり、

過去に考えたブログ記事が非常に参考になりました。

 

これはすごいことだと考えています。

なぜならば、その過去に書いたその過去の時点においては、

ブログを書かなければ消えていた概念です。

 

その当時、ブログと言うツール、言語と言うツールで表現しておいたが故に、

そこから思考を巡らすことができたわけです。

しかもそこから時間が経過していることも踏まえつつの理解が得られるわけです。

単純に刺激的ですね。

 

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本日の問い

 

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「 今日のクリエイティブは何か?」

 

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Stay hungry, 

Stay foolish!