『…何してやがった。』
帰りが遅かったのか。
全身、びしょ濡れの私を見遣る。
二の腕を掴むと、強引な程の強さで、玄関先から引っ張り上げられた。
『ったくよォ…。
冷やすんじゃねェ。』
自分の着物の袂で、私を、頭から。
まるで犬か猫にでも、するように。
ゴシゴシと乱暴に拭き上げて…。
…優しいのよ…?
…このひと、こんな風に。
無意識に、優しいの。
だから、私は。
貴方の為なら、何でも出来る。
初めて、総てを捧げてもいいと思ったひと。
『…痛いですわ、風柱様。』
…胸が、痛いです、とても。
くすくすと笑いながら。
ゆるりと、腕から逃れる。
『…もう、今日はもうお休みを頂きますね。
少し…疲れたみたいです…。』
『………………。』
疲れたのは、本当。
ずっとお側に居たくて、離れたく無くて。
このまま、お側にいたら。
決心が鈍ってしまいそうだから。
自室に戻り、皆が寝静まるのを待ちながら。
ただ、静かに響く雨音を聴いていた。
しとしとと雨は降り続き。
かの花が、咲いたかも知れないと。
期待と、不安が入り混じる。
藤の家紋の家に生まれた。
私の身に染み付いた、藤の強い香りは。
少しは、鬼除けになるだろうか。
意を決して、そろりと部屋から出ると。
音を立てないように、風柱様の部屋へ忍び入る。
相変わらず、可愛らしい寝顔を、少しだけ、眺めて。
瞼に、そっと、口づけた。
…愛しいなんて、知らなかった。
貴方が、教えてくれたのよ?
胸が、震えるくらい。
貴方が、愛しい。
そっと、部屋を後にして。
私は、夜へ駆け出していた。
裏の山は、よく知っているから、多分大丈夫。
小さい頃は、よく姉様と駆け回ったもの。
雨は、まだ降り続いている。
夜が明けるまでには、帰らなきゃ。
携帯用の行燈の灯りを頼りに。
山道を、どんどん駆け上がって。
竜神の祠を過ぎ、ようやく崖っ淵まで辿り着いた。
手にした行燈で、崖下を覗き込んで、照らしてみる。
底無しの暗闇が、まるで。
黄泉への入り口みたいで。
ぶるっ、と身震いがした。
でも。
ゆっくり行燈の灯りが消えないように。
辺りを、丹念に照らした。
ちらりと、白い花弁が見えたのは、手を伸ばせば届きそうな、崖の中腹。
カタクリに似た格好の、白い花が咲いていた。
確かに。
…うそ、みたい…。
信じられない思いで、手を伸ばす。
指先が、微かに花弁に触るのに…!
『……くっ!』
地べたに身体を投げ出して、崖下に手を伸ばす。
濡れた草が滑って、草履も着物も濡れてぐちゃぐちゃだ。
でも、そんなこと、どうだっていい…。
全身が釣りそうな程、身を乗り出して。
『………っ!!』
ブツリと、茎ごと花弁を千切った、その時に。
ずるり、と私の身体が真下へ落ちた。
ヒュッ、と息を呑んで。
落ちる…っっ!!
そう思ったのに。
すんでの処で、ぴたりと落下が止まったのと。
『……こンのォ…っ!
クソ、女ァ…っっ!!』
地獄の底から響くような、怒り狂った声がしたのは。
ほぼ同時だった。
【藤花の契 ⑨へ続く】