… -49ページ目

i am so disappointed.

1980年6月28日付の全米シングル・チャートで、ポール・マッカートニーの「カミング・アップ」が1位に輝いた。このシングルは私が生まれて初めて買った洋楽のレコードだったこともあり、思い入れがひじょうに強い。ポール・マッカートニーが元ビートルズのメンバーだったことは知っていたが、そもそもビートルズをまだまともに聴いてすらいなかった。

 

ポール・マッカートニーといえばこの年の初めに来日公演が予定されていたのだが、大麻を所持していたことが発覚し、成田空港で逮捕、拘留されたことが当時の北海道新聞でも大きく報じられていた。この頃、YMOことイエロー・マジック・オーケストラが日本では流行りはじめていたような気もするのだが、ポール・マッカートニーが来日した時にはセッションも予定されていた、というような噂もあったようだ。

 

真相は確かにポール・マッカートニーはYMOのレコードを聴いていて、ひじょうに興味を示し、可能ならセッションもしてみたいという意向を持っていたようなのだが、正式にYMOサイドにオファーなどがあった訳ではない、とYMOのメンバーであった高橋幸宏は語っているらしい。

 

いずれにせよポール・マッカートニーの逮捕、拘留によって、YMOとのセッションは叶わなかったのだが、YMOがレコーディング中のスタジオに元サディスティック・ミカ・バンドのボーカリストだった福井ミカが訪れたらしい。高橋幸宏もまたサディスティック・ミカ・バンドのメンバーだった訳だが、日本ロック史に残る名盤とされている「黒船」をプロデュースしたのがクリス・トーマスで、やがて福井ミカと恋におち結婚することになる。ポール・マッカートニーの来日公演にも帯同していて、妻のリンダは福井ミカと仲が良かったということである。

 

それで、当時YMOがレコーディングしていたミニアルバム「増殖」には「ナイス・エイジ」という曲が入っていて、これは当初、アメリカでシングルが発売されるようだったのだが、いろいろあって中止されたらしい。この曲には福井ミカのナレーションのようなものが入っていて、日本語のニュース速報のような感じで語られている「22番」というのは留置所でポール・マッカートニーに振られた番号だったらしい。そして、ポール・マッカートニーがウィングスとのライブではすでに演奏していたが、レコードはまだ発売していなかった「カミング・アップ」から「coming up like a flower」というフレーズが、「ナイス・エイジ」にはすでに入っていたりもする。

 

それはそうとして、「中二病」という言葉はタレントの伊集院光が発明されたものとされているようだが、中学2年生ぐらいの男子にありがちな自意識過剰気味な行動や精神性をあらわすものなのだろう。その症例として真っ先に挙げられているのが、「洋楽を聴きはじめる」というものである。これが現在にも当てはまるのかどうかはよく分からないのだが、私の場合も洋楽を意識的に聴きはじめたのは中学2年の頃であり、理由はおそらくなんとなくモテそうだから、というようなものだったような気がする。それで、旭川の光陽中学校の近くにあったレコードも売っている時計屋さんでポール・マッカートニー「カミング・アップ」のシングルを買ったのだった。

 

ラジオからよく流れていて、ニュー・ウェイヴっぽくて単純にカッコよかったし、麻薬所持で逮捕されたようなアーティストのレコードを買うという行為はなんとなく反抗的で良いのではないか、という気分もあったような気がする。実際に当時のポール・マッカートニーはニュー・ウェイヴやテクノ・ポップなどに興味を持っていたと思われ、それはこの曲が収録されたアルバム「マッカートニーⅡ」にあらわれてもいる。

 

当時、このアルバムはそれほど高く評価されていなかったのだが、時を経るにつれて、実はなかなか良いことをやっていたのではないかと、再評価されていたりもして、特に実験的な「テンポラリー・セクレタリー」などは評判が良い印象がある。

 

「カミング・アップ」はニュー・ウェイヴ的なサウンドに加え、ボーカルが絶妙に加工されていたりもして、ここもひじょうにカッコよく感じられた。しかし、全米シングル・チャートで1位になっていたのは、実はこれではなくスコットランドのグラスゴーでレコーディングというライブ・バージョンの方であった。なぜアメリカではこちらのバージョンがメイン扱いとなっていたかについてはおそらくマーケティング的な事情だったのだろうと推測でき、実際に1位になったのだからそれは成功だったのだろう。一方、イギリスではスタジオ・バージョンがシングルとしてリリースされたが、全英シングル・チャートでの最高位は2位で、その週の1位はデキシーズ・ミッドナイト・ランナー「ジーノ」であった。