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i am so disappointed.

先日までTwitterを利用している一部の音楽ファンの間でひじょうに盛り上がっていた「80年代アルバムベスト100」が個人的に最高すぎたということについては、前回も書いたばかりではあるのだが、引き続きその余波を味わっているというか、あの企画によっていろいろなアルバムを聴く楽しみが格段に増したなという気持ちでいっぱいである。

 

まあ、私はいろいろなメディアや個人が発表しているリストを見るのが大好きであり、もしかすると音楽を聴くこと自体よりも好きなのではないかという疑いもあるのだが、一般的なポピュラリティと音楽批評的な視点とのバランスであったり、単なるノスタルジーに陥るのではなく今日のポップ・ミュージックに対する影響という面から選ばれているようなところも絶妙に良かった。などと書いているとまたキリがなくなっていくわけではあるが、今回はトーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」について取り上げていきたい。

 

このアルバムは「80年代アルバムベスト100」においてひじょうに高い順位にランクインしていて、これには個人的にも納得がいく素晴らしいアルバムではあるのだが、自分自身が投票したベスト30のリストには入れていなかった。特に忘れていたというわけではなく、分かっていなかったけれど入れなかったということができる。とはいえ、ポップ・ミュージック史における価値を考えた場合、もちろん入れていてしかるべきという認識はある。それでもなぜ入れなかったのかというと、個人的な思い入れが薄かったというか、80年代のアルバムとしてあまり認識していなかったとか、語彙力不足でうまく説明できないのだが、そんな感じになるわけである。

 

たとえば80年代にはまだ子供すぎて、リアルタイムでこれらのアルバムを聴いていなかったり、まだ生まれてすらいなかったりするようなヤングな音楽ファンのみなさんにとっては、80年代にリリースされた音楽というのを総じてフラットに見ることができると思う。ところが80年代に中学生から大学生であった私のような者にとっては、リアルタイムで聴いていた青春のサウンドトラック的なものであったりする場合も少なくはなく、客観的な評価に加え、もしくはそれ以上に個人的な思い出補正とでもいうようなバイアスがかかってくるというようなことになってくる。

 

私の場合、初めて買った洋楽のレコードが1980年にリリースされたポール・マッカートニーのシングル「カミング・アップ」で、それから全米ヒット・チャートの上位にランクインしているものなどを中心に聴くようになっていく。それで、トーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」なのだが、1980年10月8日に発売されているらしいものの、その時点で私が認識できるほどポピュラーではなかったのかもしれない。全米アルバム・チャートでは最高19位となかなかヒットしているのだが、シングル・カットされた「ワンス・イン・ア・ライフタイム」の最高位は103位であり、「全米トップ40」にランクインすることもなかった。

 

ちなみに「リメイン・イン・イン・ライト」が発売された週、「ザ・ベストテン」では松田聖子「青い珊瑚礁」に替わり、八神純子「パープルタウン」が1位になっていた。オリコン週間シングルランキングでは田原俊彦「ハッとして!Good」が1位で、10位にはノーランズ「ダンシング・シスター」がランクインしているのだが、この曲の最高位は1位であり、80年代にこのランキングで1位になった海外アーティストの曲はこれとアイリーン・キャラ「フラッシュダンス...ホワット・ア・フィーリング」(1983)の2曲だけである。

 

それはそうとして、トーキング・ヘッズは1970年代にラモーンズ、テレヴィジョン、パティ・スミスといったニューヨーク・パンクの重要アーティストを輩出したクラブ、CBGBに出演していたことで知られ、1977年には「サイコ・キラー’77」がまあまあ売れて、パロディーソングの「サイコ・チキン」がディスコでそこそこ流行ったりもしていた。その後、ブライアン・イーノをプロデューサーに迎え、よりダンス・ミュージックに接近した音楽性で注目を集めるようになっていく。「リメイン・イン・ライト」はトーキング・ヘッズにとって4作目のアルバムで、ブライアン・イーノがプロデュースした最後の作品となった。

 

トーキング・ヘッズのメンバーで夫婦でもあったクリス・フランツとティナ・ウェイマスはユニット、トム・トム・クラブを結成し、アメリカでは「悪魔のラヴ・ソング」をヒットさせるのだが、日本では「おしゃべり魔女」がそこそこ話題になり、洋楽ランキングなどでも上位にランクインしていたような記憶がある。ヒップホップやレゲエなどを取り入れたサウンドはユニークでありながら分かりやすい魅力も感じられ、当時、私が通っていた中学校でもクラスで最も成績の良い男子などがこれを気に入ってレコードを買ったりしていた。トーキング・ヘッズのことはよく知らないし、聴いたこともなかったのではないかと思われる。90年代にJ-POP史に残るヒット曲の数々を発表した米米CLUBのバンド名は、このトム・トム・クラブが由来になっているという話を聞いたか読んだかしたことがあるような気がする。まったくの余談だが、1985年の春に東京で一人暮らしをはじめて間もない頃、当時は渋谷陽一がひじょうに推していてサブカル的な受け方もしていたように思われる爆風スランプが一橋大学の小平祭とかいうものに出演し、チケット代も1,500円だということで、西友巣鴨店のチケットセゾンで購入して国立まで見に行ったら、オープニングアクトがデビュー前の米米CLUB(当時の表記は米米クラブ)だったということがあった。ジェームズ小野田が山本リンダの曲のカバーを歌って、ひじょうに盛り上がったりもしていた。

 

それはさておき。「リメイン・イン・ライト」は成功を収めたはずなのだが、トーキング・ヘッズのバンドとしての活動は停滞し、フロントマンのデヴィッド・バーンはブライアン・イーノとアルバム「マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ」をリリースするなどしていた。

 

そのうちMTVが開局し、マイケル・ジャクソン「スリラー」が大ヒットし、第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンの嵐が吹き荒れるなどした後、トーキング・ヘッズは2年半以上ぶりとなるアルバム「スピーキング・イン・タンズ」をリリース、シングル・カットされた「バーニング・ダウン・ザ・ハウス」は全米シングル・チャートで最高9位のヒットを記録する。その週の1位はボニー・タイラー「愛のかげり」、2位がエア・サプライ「渚の誓い」とジム・スタインマンによるドラマチックな楽曲が並び、他にトップ10内にはスパンダー・バレエ「トゥルー」、ライオネル・リッチー「オール・ナイト・ロング」、ポリス「キング・オブ・ペイン」、プリンス「デリリアス」などがランクイン、翌月に六本木WAVEがオープンしている。

 

このアルバムを引っ提げたツアーを記録したジョナサン・デミ監督によるドキュメンタリー映画「ストップ・メイキング・センス」が公開され、日本でも高感度な情報最先端人間などと呼ばれがちな人々を中心に大いに受けていた印象がある。大きめのジャケットを着て、痙攣気味のパフォーマンスを見せるデヴィッド・バーンの姿は、当時、よく日本のメディアにも登場していたような記憶がある。どこか知的なイメージが、当時の日本のニューアカデミズムで新人類なのだが、軽チャーでもあるような感じに絶妙にハマっていたようにも感じられる。その後、「リトル・クリーチャーズ」「トゥルー・ストーリーズ」と、アルバムをリリースする毎に安定して高評価というような感じにはなっていく。ちなみに、「三宅裕司のいかすバンド天国」でグランドイカ天キングに輝いた中でも「渋谷系」的な人達にもわりと人気があるLittle Creaturesは「リトル・クリーチャーズ」のアルバムタイトル、1992年にシングル「クリープ」でデビューした後、オルタナティヴ・ロック界においてひじょうに重要なバンドとなるレディオヘッドは「トゥルー・ストーリーズ」に収録されている曲のタイトルからバンド名を付けたとされているようだ。まったくの余談だが、確か1991年ぐらいだと思うのだが、六本木WAVEに行こうと青山学院大学の近くのバス停からバスに乗って窓から外を見たところ、なんだか疲れたような表情にも見えるLittle Creaturesが3人で歩いていて、「お!グランドイカ天キング!」とミーハーに盛り上がった記憶がある。「赤いチョコレートの下で」でイカ天キングに輝いたイエロー太陽sのメンバーは、普通にキャンパス内でよく見かけた。

 

個人的には「トゥルー・ストーリーズ」を小田急相模原のレコードレンタル友&愛で借りて聴いたり、このアルバムをサウンドトラックとする映画のビデオを旭川の実家に帰省した時にレンタルして、妹と一緒に見たりもしていた。それで、1988年にリリースされたアルバム「ネイキッド」のCDは小田急相模原のオウム堂というCDショップで買ったはずである。ジェームス・ブラウンみたいな「ブラインド」という曲が好きだったりもしたが、これがバンドとして最後のオリジナルアルバムになった。

 

そうこうしているうちに80年代が終わり、そのタイミングでアメリカの「ローリング・ストーン」誌が80年代のアルバム・ベスト100を発表するのだが、1位からして1979年にイギリスではリリースされていたザ・クラッシュ「ロンドン・コーリング」だということで、いろいろ意見はあったような気はするのだが、こういうリストは当時はまだ現在ほど多くはなかったので、私のような者はすぐに飛びついたのであった。2位のプリンス&ザ・レヴォリューション「パープル・レイン」、3位のU2「ヨシュア・トゥリー」に続いて、4位に選ばれていたのがトーキング・ヘッズの「リメイン・イン・ライト」であった。その後には、ポール・サイモン「グレイスランド」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」、マイケル・ジャクソン「スリラー」、R.E.M.「マーマー」と続く。ということはつまり、これはかなりすごいアルバムということなのではないか。そう思って、おそらく渋谷の宇田川町にあった頃のタワーレコード辺りで「リメイン・イン・ライト」のCDを買ったのではなかったかと思う。

 

それで、聴いてみたところ確かにカッコいい。アフロビートが取り入れられていて、独特なノリが感じられる。当時、ロックにアフロビートを取り入れたことについて賛否両論があったというような話も聞いたような気がするが、あくまで昔話という感じだったと思う。もうすでにこの時点で名盤だったのであり、確かに優れたアルバムだとは感じたのだが、80年代にリアルタイムで聴いてはいなかったので、個人的にはなかなか微妙な距離感だと感じている。

 

それで、今朝、世間一般的には祝日でも通勤時に久しぶりに聴いてみたのだが、やはりとても良い。とはいえ、リアルタイムで聴いていたり青春のサウンドトラックであったことがないので、ザ・スミス「クイーン・イズ・デッド」やプリンス「パープル・レイン」などよりも、テレヴィジョン「マーキー・ムーン」やパティ・スミス「ホーセズ」などに認識としてはより近い。シングル・カットされた「ワンス・イン・ア・ライフタイム」など、音楽的にもひじょうに面白い上に、ミッドライフクライシス的な実存の危機的状況をシニカルかつユーモラスに表現していたりして、やはり最高だなと感じたのであった。このようにして、「リメイン・イン・ライト」の魅力を再認識させてくれたりもするので、「80年代アルバムベスト100」というのはやはり素晴らしいコンテンツだなと改めて感じるのであった。