1980年の夏の思い出について。 | …

i am so disapointed.

「THE MANZAI」の視聴率が一気にはね上がったのは1980年7月1日に放送された第3回であった。5月20日に放送された第2回が17.2%だったのに対し、27.0%と急上昇を見せている。この回に出演していたのは、ツービート、島田紳助・松本竜介、B&B、横山やすし・西川きよし、西川のりお・上方よしお、ザ・ぼんち、春やすこ・けいこの7組、翌朝の中学校の教室ではこの番組のことが話題になっていたり、ネタのキートなるフレーズを紙にメモしていた者までいた。「ツービートのわッ毒ガスだ-ただ今、バカウケの本」はベストセラーとなり、当時の私の実家の近所にあった太陽堂書店でも在庫を切らしていた。外回りの営業のような若い男が店に入ってきて、店員にツービートが書いた本はありますか?と聞いて、売り切れていることを伝えられていた。何らかの本か雑誌を立ち読みをしていた私は、中学生ながらにどうせゴーストライターが書いているのであり、ツービート自身が書いているわけではないだろう、というような可愛げのないことを考えていた。

 

山下達郎の「RIDE ON TIME」がこの年の5月1日に発売され、本人が出演したカセットテープのテレビCMの影響もあって、オリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録していた。フジテレビで金曜の夜に放送されていた(私が見ていたのはUHBこと北海道文化放送のネット放送によってだが)「花の金曜ゴールデンスタジオ」という番組で、「オリコン新聞」などとも呼ばれていた「オリコン全国ヒット速報」の存在を知り、amsこと旭川緑屋ショッピングセンター(後の西武百貨店旭川店A館)のディスクポートでも売られていることが分かった。ヒットチャートや音楽についての情報などがたくさん載った素晴らしい雑誌で、1部100円であった。これを私は毎週購入し、隅から隅まで熟読するようになるのであった。

 

YMOことイエロー・マジック・オーケストラによる、シンセサイザーを用いた基本的にインストゥルメンタル(ボーカルが入っている曲もあるが)の音楽はテクノポップと呼ばれ、いつの間にか大流行していた。私の周囲にもYMOのレコードを買っている者がたくさんいたのだが、私はヒカシュー、P-MODELと共にテクノ御三家などとも呼ばれていたプラスチックスのレコードを好んで聴いていた。批評性が高くポップな音楽性と、メンバー全員がクリエイター系の本職を持っているというような軽さがとても良いと感じた。あまりにも好きすぎて、家にある文具や学校の机などにプラスチックスのロゴを書いたり彫ったりしまくっていた。

 

YMOの人気は少しずつ一般化していったのだが、前の年の9月25日に発売されたアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」からは、「テクノポリス」がシングル・カットされ、話題になっていたのだった。この曲はメンバーの坂本龍一がヒットさせるためにピンク・レディーの楽曲を研究してつくったといわれているが、東京をテーマにしたご当地ソングという側面もある。機械的に加工された「トキオ」というボイスが印象的だが、同じく東京のことを「トキオ」と表現したヒット曲といえば、この年の元旦にシングルがリリースされた沢田研二の「TOKIO」である。作詞はコピーライターの糸井重里であった。

 

「テクノポリス」は6月23日付のオリコン週間シングルランキングにおいて9位に上昇し、シングル・カットから約8ヶ月後にして初のトップ10入りを果たしている。「テクノポリス」を収録したアルバム「ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー」はこの年のアルバムランキングで年間1位になるほど売れていたのだが、それでいてシングルもヒットしていたところにブームの大きさを感じさせられる。ここにきてのトップ10入りには、6月2日に放送された「夜のヒットスタジオ」への出演が影響していたのではないかと思われる。なんとなく流行ってきているところに、この番組への出演によりお茶の間にも波及、6月8日に最新ミニアルバム「増殖」が発売されるのだが、それには収録されていない「テクノポリス」をシングルで購入というような流れがあったのかもしれない。

 

オリコン週間シングルランキング、あるいは「ザ・ベストテン」でずっと1位だったのは、もんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」であった。有線放送から火がついたということだったのだが、ヒットしはじめるとテレビにも積極的に出演し、もんたよしのりのハスキーなボーカルと印象的なアクション、ルックスが可愛いと評判になったりもする。田原俊彦が6月21日に「哀愁でいと」でデビュー、「ザ・ベストテン」にも7月10日に8位で初登場し、出演を果たした。前の年に「ダンスに夢中」がヒットしたレイフ・ギャレットのカバー曲で、歌唱力についてあれこれ言われたりもしたが、その圧倒的なポップ感覚や軽さのようなものに衝撃を受け、新しい時代の到来を感じたりした。

 

田原俊彦は前の年の秋からTBSで放送されていたテレビドラマ「3年B組金八先生」に出演したことにより人気が出て、近藤真彦、野村義男と共にたのきんトリオなどと呼ばれてもいた。「3年B組金八先生」はクラスメイトなどの間で話題になっていたし、主題歌の海援隊「贈る言葉」が大ヒットしたりもしていたのだが、個人的にはなんとなく湿っぽそうな内容に興味がそそられず、まったく見ていなかったのだった。たのきんトリオのこともなんとなく知ってはいたのだが、ドラマで人気の役者がレコードを出したところでそれほどヒットはしないという実例をいくつか見てもいたため、どうせたいして売れないのだろうと思っていた。それがいきなりヒットするし、このポップ感覚である。70年代後半にはニューミュージックが大流行していて、フレッシュアイドルにとっては受難の時代であった。歌謡ポップスにおいてもベテランや大スター達の人気がすごくて、若手が活躍する余地というのがあまり残されてはいないような気もしていた。そんな最中、山口百恵が三浦友和との結婚と1980年秋での引退を発表し、ポスト百恵は誰かということが話題になったりもしはじめた。

 

現在のマガジンハウスが当時は平凡出版という名称だったのだが、「ザ・パンチ・パンチ・パンチ」というラジオ番組を提供してもいた。タイトルは「週刊プレイボーイ」のライバルのような印象もあった男性週刊誌「平凡パンチ」にちなんだものであろう。レギュラーとしてパンチガールと呼ばれる女性3人が出演していて、そのうちの1人が松田聖子であった。春にレコードデビューをするということで、「裸足の季節」というタイトルのデビュー曲も番組でかかった。資生堂のエクボ洗顔フォームという商品のCMにも使われていて、「えくぼの秘密あげたいわ」というフレーズが印象的であった。このCMに出演しているのが松田聖子かと誤解される場合も多かったといわれるが、これは山田由紀子であった。松田聖子はえくぼができないため、商品のコンセプトに合わず、出演することができなかったという話がある。

 

すでに実力も兼ね備えた人気歌手として知られていた岩崎宏美の妹、岩崎良美がデビューするということで話題になり、デビューシングルの「赤と黒」もオリコン週間シングルランキングで最高19位とまずまずのヒットを記録する。歌唱力も期待に違わぬレベルであり、ポスト百恵の有力候補として見なされるようになった。「ザ・ベストテン」で圏外の楽曲から注目作を紹介する「今週のスポットライト」のコーナーに、岩崎良美が2作目のシングル「涼風」、松田聖子がデビューシングル「裸足の季節」で同じ日に出演した。数週間後、「涼風」は10位にランクインしたが、「裸足の季節」は最高11位に終わった。そして、松田聖子の2作目のシングル「青い珊瑚礁」が7月1日に発売、8月14日の「ザ・ベストテン」で8位に初登場した。この週の2位は田原俊彦「哀愁でいと」で、翌々週にもんた&ブラザーズ「ダンシング・オールナイト」と入れ替って初の1位に輝く。そして、この曲の4週連続1位を阻んだのは、松田聖子の「青い珊瑚礁」であった。これにより、アイドルポップスの復権ははっきりと印象づけられたのだが、この年にデビューしたアイドルでは河合奈保子、柏原よしえがいずれ「ザ・ベストテン」の常連となっていく。

 

この年の7月、旭川の6条通14丁目6-4にイトーヨーカドーが開店した(2021年5月9日に閉店)。オープンのセールはかなり混みあっていたような気がする。父が持っていた土地を業者に一時的に貸すとかで、お金が入るので東京に連れて行ってもらえることになった。それで着て行くTシャツなどを買ってもらったりしたのだが、「U.S.A.」とプリントされていたり、よく分からないデザインのものをなぜか選んでいた。当時の日本においてはアメリカに対しての憧れがひじょうに強く、私が乗っていた自転車の名称もカリフォルニアロードであった。後はタモリが書いたということになっている、ニューヨーク旅行術のような本も買って読んでいたような気がする。

 

東京はこの時が生まれて初めてであり、俄然、楽しみではあったのだが、夏休みに入るとその前に北大学力増進会か何かの夏期講習に通わなければならなかった。それは旭川市街地の会館の会議室のようなところで行われていて、親から昼食代が手渡されていた。マクドナルドで食事をすることもあったが、節約をしてブックス平和で「がんばれ!!タブチくん!!」のブームに便乗して出された実在のプロ野球選手を題材にしたタイプのギャグマンガ本やミュージックショップ国原などでレコードを買ったりすることもあった。よく覚えているのが、シーナ&ザ・ロケッツの「ユー・メイ・ドリーム」である。1979年10月25日に発売されたアルバム「真空パック」から、同じ年の12月5日にはシングル・カットされていたが、日本航空のCMの影響だったような気がするが、この年の夏に売れてきて、オリコン週間シングルランキングで最高20位を記録した。

 

シーナ&ザ・ロケッツは福岡出身のロックンロールバンドだったが、この頃の個人的な印象はテクノ/ニュー・ウェイヴ的な文脈のバンドというものであった。これには「ユー・メイ・ドリーム」をプロデュース、共作もしていたのが細野晴臣だったり、YMOと同じアルファレコードから発売されているという点が影響していたように思える。この頃、テクノ/ニュー・ウェイヴ的なバンドがテレビに出演することなども少なからずあり、新しい時代を感じたりもしていた。YMOやテクノ御三家のプラスチックス、ヒカシュー、P-MODEL以外では近田春夫のバックバンド、BEEFが前身で「ジェニーはご機嫌ななめ」をヒットさせていたジューシィ・フルーツや小川美潮が在籍していたチャクラ、ロックバンド化してから「ボスしけてるぜ」の一部での放送禁止や「シングル・マン」の再発運動といった話題性もあったRCサクセションもこのカテゴリーでなんとなく認知していたような記憶がある。

 

夏期講習の教室に午後の授業がはじまる少し前に戻ると、市内随一の進学校である旭川東高等学校の男子生徒と20代ぐらいの講師が雑談をしていた。ドゥーワップを取り入れたデビュー・シングル「ランナウェイ」がいきなり大ヒットしてブレイクを果たしたシャネルズのメンバーの一部に不祥事が発覚し、活動休止になったというような話題であった。講師はこれでシャネルズはもう終わりだろうというようなことを言っていて、男子生徒は乱交パーティーってどういう意味ですか、と素朴な疑問を投げかけていた。講師の回答は「乱れて交わること」という、なかなか苦しげなものであった。ニッポン放送の「大入りダイヤルまだ宵の口」はシャネルズ「トゥナイト」をベースにしたものをオープニングいぇーまとして使っていたと思うのだが、そのうち田原俊彦「青春ひとりじめ」に変わっていた。

 

当時、熊本大学の学生だった宮崎美子が出演したミノルタカメラのCMは、木陰でTシャツとジーンズを脱いで水着姿になるという内容だったが、これが大いに受け、キャッチコピーである「いまのキミはピカピカに光って」をタイトルにした斉藤哲夫のCMソングもオリコン週間シングルランキングで最高9位のヒットを記録した。

 

7月31日の「ザ・ベストテン」には「順子」がヒットしている長渕剛が出演するということで、わりと話題になっていた。気さくな好青年というような印象で、強面な雰囲気はまったく無かった。私も楽しみにしていたのだが、いろいろ疲れてもいたのだろう、寝過ごして見逃すという痛恨の失敗をおかしてしまったのであった。

 

そして、翌週はいよいよ旭川空港からTDAこと東亜国内航空のYS-11機で人生初の東京に出発である。羽田空港に着き、東京でまず最初に行きたいところとして、赤坂見附のラジオたんぱがあった。後にアニメの声優としても活躍する小森まなみがパーソナリティーを務めていた、「ヤロメロジュニア出発進行!」の公開生放送である。羽田空港からモノレールで浜松町に向かっている途中、海でトビウオが跳ねているように見えた。タクシーでアメリカ大使館の近くに着くと、北海道では聞いたことがないレベルのけたたましいセミの声が聞こえた。

 

夜は上野に宿を取り、アメ横を歩いたりした後、中華料理店で食事をすることにした。ソース焼きそばが大好きだったので、そこでも焼きそばを注文していたのだが、それまで知っていたのとはかなり違って、この世のものとは思えないとてつもなく美味しい焼きそばであった。いま思うとこれはオイスターソースを用いた上海焼きそば的なものだったのだと思う。あれからあの店を探そうと試みたのだが見つけることができず、さすがに40年以上も前の話なのですでに無くなっている可能性が高い。私の中ではあれは幻の焼きそばということになっている。

 

旅館の部屋でラジオを聴いていたのだが、さだまさし「防人の詩」を主題歌とする映画「二百三高地」のCMスポットなどが流れていた。翌朝はラーメン店のようなところで冷やし中華を食べたような気がする。夏の高校野球にこの年は東京から早稲田実業高校と国立高校が出場していて、いろいろなところに応援の掲示があった。後楽園球場の日本ハムファイターズと西武ライオンズの試合のチケットが買えるということだったので、その日の夜は観戦をすることにした。「がんばれ!!タブチくん!!」が好きだったこともあり、西武ライオンズ側で応援をすることにした。

 

試合前になんとアイドルの柏原よしえが登場し、デビュー曲の「NO.1」を歌った。日本ハムファイターズには同じ名字の柏原純一選手がいるので応援したい、というようなことを言っていたような気がする。こんなにも気軽にアイドルが見られるなんて、東京というのはやはりすごいところだな、とミーハー的に盛り上がっていた。野球観戦をしていると、飲みものを売りにくる人達がやたらといるのだが、この時はドクターペッパーをひじょうに推していたのだった。ちなみに当時、北海道ではドクターペッパーが売られていなかったので試しに買って飲んでみたのだが、何だか微妙な味に感じられた。いまではかなり大好きなのだが、当時はなんとなく薬っぽいと思った。父はお尻のような味がする、とよく分からないことを言っていた。

 

次の日ははとバスのツアーに参加したはずである。船の科学館で笹川良一を囲んでみんなで記念写真を撮った。日本船舶振興会のテレビCMで戸締り用心、火の用心を呼びかけたり、お父さん、お母さんを大切にしようなどと言ったりしていたので、当時はとても立派で偉い人なのだと思っていた。あと、NHK放送センターなどにも行ったような気がする。その日が東京で最後の夜だったと思うのだが、銀座の高いビルの上の方の階で、席がゆっくりと周り夜景が堪能できるタイプのレストランで食事をした。父がウィスキーのつまみに頼んでいたスモークサーモンというものを少しだけもらい、生まれて初めて食べてみたのだが、こんなに美味しいものが世の中にあったのかと軽く感激したことを覚えている。ここには懐かしくて、何十年か後に現在の妻かその前の彼女と行ったことがあるのだが、どちらだったかはっきり覚えていないので確認ができずにいる。確か数年前に閉業してしまったので、もう二度と行くことができない。

 

この席がゆっくりと一周するタイプのレストランは確かスカイラウンジなどと呼ばれて、実は旭川の銀ビルというところにもあった。もちろんビルの高さも夜景のレベルも格段にグレードダウンしたものではあるのだが、心意気は感じるというものである。ここももうとっくに営業はしていないはずである。

 

この時に将来は東京で生活をしようとはっきりと心に決めたはずだが、あの頃に漠然と思い描いていた数十年後とはどの程度合っているのかよく分からない。とはいえ、それほど嫌でもないので、まあまあ良いのではないかとも思える。

 

最後に1980年の夏休みを感じるプレイリストをApple Musicのカタログに入っている楽曲限定で作成すると共に公開して、逃げるように終わっておきたい(山下達郎「RIDE ON TIME」と田原俊彦「哀愁でいと」が入っていない時点で不完全きわまりないのだが、仕方のないことである)。