ビデオゲームの「スペースインベーダー」が発表会で初めてお披露目されたのが1978年6月16日らしく、40周年を迎えた2018年あたりからこの日は「スペースインベーダーの日」となっているようだ。
「スペースインベーダー」の名前を初めて聞いたのは当時、水曜日の深夜に放送されていた「タモリのオールナイトニッポン」でだったと思うのだが、その時にはすでに流行っているとかみんなやっているとか言われていたような気がする。とはいえ、それが一体どのようなものであるのかについてはまったく分からず、そのカッコよさげな響きにただただ都会への憧れを募らせていた。
その頃の日本ではアメリカから上陸した映画「スター・ウォーズ」やピンク・レディー「UFO」の大ヒットなど、なんとなくSFチックなムードが漂っていたような気がする。「スペースインベーダー」という言葉の響きは、そのようなムードともマッチしていたように思える。
やがてそれがビデオゲームのことだということが、少しずつ分かっていく。
それ以前、デパートの上の方の階にゲームコーナーのようなものがあり、親や親戚などが買物をしている間、子供達で遊んだりしていたものである。しかし、70年代半ば頃においてビデオゲームは見かけず、アームでキャンディーをつかんだり、穴からランダムで顔を出すモグラの模型のようなものをハンマーで叩いたり、自動車の模型のようなものを道路上の線から外れないようにハンドル操作するようなもの、あるいは子供向けにカスタマイズされたボーリングやパチンコのようなものがメインだったような気がする。
テレビに接続して遊ぶようなタイプのビデオゲームはテレビゲームと呼ばれ、その機械が家庭用に販売されてもいた。我が家にも任天堂のテレビゲーム15というオレンジ色の機械があって、よく遊んだものであった。1つのゲーム機に15種類のゲームが入っているという触れ込みだったが、実際には左右に配置されたラケットでボールを打ち合うものがほとんどであり、背景の色やフィールドやコートなどの形状によって、サッカーと呼ばれたりピンポンと呼ばれたりしていた。それが7種類あるのだが、シングルとダブルスで遊ぶことができるのでそれで計14種類、さらに射撃ゲームのようなものを加えて15種類という感じだったと思う。他にはエポック社のテレビ野球ゲームや、メーカーは忘れたがブロック崩しの機械などもあったように記憶している。
あれは確か1978年のことなのだが、旭川の東急インか何かで行われていた子供向けのアスレチック教室のようなものに通っていて、その帰りにロビーのようなところで時間をつぶすことがあった。その時に、サーカスというタイトルだということを後に知るビデオゲームを見た。シーソーを利用して、2体のピエロが上空に舞っている風船を割るという内容なのだが、落下してくるピエロをシーソーで受け止め損ねると、そのまま地面に落ちてご臨終となる。電子音で葬送行進曲が流れる訳だが、そのサウンドに未来を感じたりもしていた。この年にリリースされたYMOことイエロー・マジック・オーケストラのデビュー・アルバムでは、このゲームの音楽が「コンピューター・ゲーム」というタイトルの曲でカバーされてもいる。
「スペースインベーダー」は社会的な大ブームとなるのだが、当時はこの正式名称よりもインベーダーゲームと呼ぶ場合の方が多かったような気もする。あまりにも流行りすぎたために、いろいろな面で非行の温床になるのではないかということで、旭川の中学校では禁止されていたはずである。とはいえ、禁止されればされるほど興味もわく訳で、私も放課後に一旦、家に帰ってから、「ドラえもんスナック、脂っこくて好きだっちゃ」などと言っている小学校来の友人と旭川の須貝ビルにインベーダーゲームをやりにいった。
ちなみに、「~だっちゃ」とは当時、人気アニメ「うる星やつら」のラムちゃんの語尾とは関係なく、なぜか当時の旭川の一部の中高生などによって用いられがちだった言葉である。そして、須貝ビルとは旭川平和通買物公園を駅から常盤公園の方に向かって歩いていく途中にあった、映画館、紳士服店、ゲームセンター、ボーリング場などが入った良いビルである。また、良いビルという言い回しは、かつてモーニング娘。のメンバーであった新垣里沙が地元、横浜で他のメンバーと遊ぶ理想のコースについて語った時に用いた言葉として知られている。
須貝ビルではエレベーターの中でツッパリにカツアゲされるというのも、当時の旭川の弱い男子あるあるだったが(けして笑いごとではない)、その恐怖をかいくぐって、やっとインベーダーゲームをやる機会を得たのだが、数分も遊ばないうちに補導員に見つかり涙目ということもあった。しかし、その後、その禁止ルールはなし崩し的にゆるまっていき、1981年ぐらいには放課後の中学生が駄菓子屋の店内に置かれたゲーム筐体で普通に遊んでいても、補導員が来ることはなかった。もっともその頃には、インベーダーゲームの人気は下火で、クレイジー・クライマーやドンキーコングなどに人気があった。
私がレコードや「オリコン・ウィークリー」などをよく買いにいっていたミュージックショップ国原の上の方の階にもゲームセンターがあり、土曜の放課後など、友人達がテレビゲームに興じていた。私はほとんど見ているだけであり、自分で筐体にコインを入れて遊ぶことはほとんど無かった。同じお金を使うのならば、なるべくレコードか本を買いたかったからである。
ニッポン放送で深夜に放送された特別番組が本になり、そのタイトルは「マトモジンVSインベーダー」であった。世代間の感覚のギャップをテーマにした内容で、マトモジンが大人、インベーダーが若者を指している。この本は面白そうだったので、私も買ったはずである。番組では真夜中にマラソンをやったりしていて、優勝景品は「グァム島の旅」というように聞こえた。あくまで聞こえただけである。優勝者が実際に手にしたのは、チューンガムが10枚と足袋だったような気がする。グァムならぬガムが10(とう)と、旅ならぬ足袋(たび)ということである。実に牧歌的な時代だったということもできる。
あとはディスコブームで、「ディスコお富さん」など、何でもかんでもディスコポップスにするという風潮があったが、やはり「ディスコ・スペース・インベーダー」というレコードも出ていたはずである。
また、あまりにも流行りすぎて、インベーダー消しゴムなるものも出ていた。「スペースインベーダー」のゲーム中に登場するインベーダーやUFOや陣地のようなものが、様々な色の消しゴムになったものである。これらは1回20円ぐらいで回せたガチャガチャの中に入っていたり、袋詰めにされて玩具店などで買うことができたような気がする。我が家ではこれらを床に並べ、ビー玉などを転がして倒すことによって得点を競うという、バーチャルインベーダーゲームのようなものが兄弟やいとこの間で繰り広げられたりもしていた。
「スペースインベーダー」をそれほど熱心にやったタイプではまったく無いが、あのサウンドやヴィジュアルはある意味、ポップアートのようでもあって、この国のある時代の気分を象徴するものだったように思える。