西寺郷太「Funkvision」について。 | …

i am so disappointed.

ポップ・ミュージック好きとしての私のルーツはおそらく幼い頃に何気なく聴いていた日本の流行歌なのだが、自ら選んで積極的に聴きはじめたという点では、中学生や高校生だった頃の全米ヒット・チャートだと思う。それは輝ける青春の日々のサウンドトラックというよりは、退屈な日常を少しでもましに思わせてくれるようなものであった。

 

西寺郷太の最新ソロ・アルバム「Funkvision」を聴いていて、ポップ・ミュージックがそのような存在だった頃の感覚を思い出した。それはなにも、マイケル・ジャクソンやプリンスのカバーが収録されているからだけではない。

 

CDを扱う仕事をしていたこともあったので(そして、いままたしていないわけでもない)、NONA REEVESの名前ぐらいは知っていたのだが、日本の新しいアーティストやバンドを追いかける気力も体力も潰えて久しかったので、その音楽は聴いたことがなかった。

 

きっかけはやはりNegiccoで、「さよならMusic」という曲がカッコよくて好きだなと思っていたところ、どうもこの曲にはNONA REEVESの「LOVE TOGETHER」、そして、「ラヴ・アライヴ」という曲に対するオマージュが含まれているという。「さよならMusic」はシングル「ときめきのヘッドライナー」のカップリング曲であり、表題曲を作曲・プロデュースしているのがNONA REEVESの西寺郷太だということであった。試しに聴いてみたところ、オマージュというか、これはモロすぎるのではないか、あの「カエポどうよ」は元々は「郷太どうよ」だったのか、などいろいろ奥深いなと思って感激した。

 

それからNONA REEVESの他の曲もいろいろ聴くようになったのだが、ソウル・ミュージックの影響を受けながらも、あくまでポップでキャッチーなところ、どこかしら切なさが感じられるところなどがとても好きだなと思うようになった。夏の記憶の中にいる女の子たちはもちろん透明だが、そのことを歌った「透明ガール」という曲にグッときて、先日、勝手に発表した「夏に聴きたい日本のポップス・ベスト50」の1曲にも選んだのであった。

 

マイケル・ジャクソンやプリンス、「ウィ・アー・ザ・ワールド」についての著書があったり、先日はワム!のことについて書かれた著書もあるということを、フォロワーさんから教えていただいたが、気にはなっているのだが、いまだ読めていない状況である。しかし、近いうちに私はおそらくこれらを読むのではないかと思う。今日、朝から「Funkvision」を7回ぐらい聴いていて、そう思った。

 

今日は普通に仕事だったのだが、通勤電車の中や休憩中や作業中などに聴いているだけで、7回ぐらい聴けてしまった。10曲入り、約37分間というサイズ感は、最近の特に洋楽のアルバムにはよくありがちである。長すぎないし、曲のタイプもバラエティーにとんでいて、それでいてトータル性もちゃんとある。何度も聴いているうちに、細かいところまでとてもよくつくられているな、ということに気がつくのだが、ポップでキャッチーなのでスルッと聴けてしまう。途中のフレーズにハッとさせられたりもする(特に「Decade」)、次からそれが痛快に感じられる。終わると、また頭から再生したくなる。

 

マイケル・ジャクソンとプリンスのカバーが収録されていると聞いていたので、もっとバンドではできない趣味性全開のアルバムを想像していた。バンドではできない、という点では確かにそうかもしれない。趣味性全開ももしかするとそうなのかもしれないのだが、その趣味性というのが実はバンドよりも開かれたものだった、ということなのかもしれない。

 

そして、マイケル・ジャクソンとプリンスといえばいずれもレジェンダリーなアーティストではあるが、80年代の印象が強い。カバーされている楽曲も、いずれも80年代の作品である。しかし、これがまったく古くない。それと、オリジナル作品と並んでいるのに、ごくごく自然な流れになっている。それは、マイケル・ジャクソンとプリンスの楽曲が原型をとどめない程に西寺郷太の色に染まっているからなのかといえば、むしろオリジナルに忠実なような気がする。ということは、コピーみたいなのかといえばまったくそんなことはなく、新しい。一体、ちょっとなにを言っているのか分からない文章になってきているのだが、実際にこのような印象なのである。

 

つまり、80年代のマイケル・ジャクソンやプリンスのようにメインストリームのど真ん中的な心意気を持ちながら、ちゃんとオリジナルというのを、いまの時代に合うようにアップデートしているという感じなのである。そして、オリジナル楽曲もそのベクトルにおいて、これらと遜色がない、ということなのではないかと思う。

 

1曲目にしてタイトルトラックの「Funkvision」は、ついついニュー・ジャック・スウィング、などと言いたくなってしまうようなタイプの楽曲なのだが、90年代はじめに流行した音楽をそのままコピーしているわけではなく、それらが再評価されている現在のリアルタイム感がビシビシ反映されている。まさに、いまこの時のポップスとしての必然性だとか生々しさが感じられる。

 

「True Madonnna」のイントロはとてもキラキラしていて、まるで80年代のメインストリームのポップスのようだな、とも思うのだが、80年代そのものがキラキラしていたというよりは、キラキラさせようという心意気がポップ・ミュージックに漲っていたのであり、普通の人たちがそれほどキラキラしまくっていたわけでもなかったような気がする。

 

ヴォーカルにオートチューンがかけられていたり、ベッドローム・ポップ的なミニマル感があったり、ファルセット気味に歌われていたり、いまどきのアメリカのメインストリームのポップスと通じているようなところも感じられる。

 

ポップ・ミュージックだけではなく、あらゆる面において日本語ネイティブの文化面におけるガラパゴス化というのが今日言われてもいて、それはおそらく間違いないのだが、それが良いのか悪いのかは正直、よく分からない。こうなったがゆえの良いものというのも出てきている可能性はあるし、そもそもその世代の若者にとっては、それのどこに問題があるのかさっぱり分からないだろう。私もそれが本当に問題なのかどうかはよく分からないのだが、感覚としてつまらないな、とはなんとなく思う。しかし、それは私が多感だった中学生や高校生の頃は、アメリカの音楽だとか映画といったものが間違いなく憧れとしてあって、日本にも好きなものはたくさんあったが、共通認識としておそらくそれは広く共有されていたから、ということもいえる。

 

こういうジレンマというのは世代特有のものとしてとりあえず抱えながら、それでも日本のものはそれはそれとして楽しめた方がいろいろハッピーなのではないか、とかそんなことを考えながら、いろいろなものを楽しめたり楽しめなかったりしている。

 

私もアメリカのメインストリームの音楽にまったく興味が無くなっていた時期もあったのだが、特にここ最近はまた面白いと思っていて、それは社会の状況を反映しているからでもあり、そもそも私はポップ・ミュージックのそういう側面こそが好きだったのだ、と思い出したりもしている。だから、純粋に音楽だけが好きな人たちとは、おそらく深いところの話はできないような気もしている。

 

「BLUE JEAN」はヴォーカルが全体的にファルセット的なこのアルバムにおいて、そうではない感じで歌われていて、ブルー・アイド・ソウルの今日的解釈とでも言えなくもいえないところもあり、いろいろグッとくる。「BODYMOVES!」はミニマリズムの極みともいえる曲で、今日の言うてもJポップのカテゴリーにおいて、この音数の少なさは大丈夫なのかと思うレベルなのだが、たとえばソウル・ミュージックをリスペクトする非アフリカン・アメリカンのアプローチとして、こういうのは確かにあったし、それの現代版なのかと思えば納得がいくし、その志の高さとロマンティックの止まらなさに感動を禁じえない。スクリッティ・ポリッティとかそういうやつのことなのだが、それに似ているのかというとそんなわけでもなく、当時、80年代に彼らがやろうとしていたことを、2020年の感覚でやろうとしているとか、そんな感じである。

 

かと思えば、次の「Heavy Day」はAORというかソフィスティ・ポップというか、そういう雰囲気も漂っているのだが、リズムとかの感覚が明らかに現在のそれであり、リバイバルをふまえての現役感にあふれている。それで、歌詞に「新幹線」とか「コンバース」とか出てくるので、まあたまらないわけである。「君さえいれば」というような感覚というのは、人生において最も大切なものの1つだと思うわけだが、こういうとても重要なことを、きわめて聴きやすくて耳ざわりよさげな音楽にのせてサラッと歌ってしまう美学というのも確かにあって、それを正しく継承しているようなところもたまらない。

 

次がマイケル・ジャクソン「P.Y.T.」のカバーなのだが、あのモンスター・ヒット・アルバム「スリラー」において、シングル・カットされたしヒットもしたのだが、それほど目立つ方の曲でもない。チャーミングという言葉がとても相応しいし、ホラーだったりコワモテ風だったりスキャンダラスだったりもするあのアルバムのバランス感覚的にも、とても大切な1曲ではあったと思う。これを、わりとソウルフルに歌っていて、贔屓目の可能性は大いにあるのだが、ある箇所においては間違いなくオリジナル以上にグッときた。ものまねだとかパロディーにされることも多いマイケル・ジャクソンだが、リスペクトの本気度が伝わるというか、必然性のあるカバーだな、と感じた。

 

そして、この次が「Decade」なのだが、アコースティックな感じも少しあって、アルバム全体の流れとしてはメリハリが付いて良い感じだなぐらいの感覚で油断していたら、ところどころに出てくるフレーズが刺さりまくる。あえて引用はしないのだが、ポップでキャッチーな音楽をつくっているこのアーティストだが、もちろん不承不承に生きているところは間違いなくあるし、それに対して言いたいこともある。しかし、それらをあくまでアーティスティックに表出しているように見せかけた表明をしながらも、それは愛している人を大切にしたいという日常的な思いと無関係ではない、というかむしろ密接に関係しているのだ、ということが歌われているようでもある。

 

歌詞にあるフレーズを1つだけ抽出するならば、「高輪ゲートウェイ」という単語が入っていることによって、2020年であることが強く認識される。どのような意図で、このフレーズが用いられたのかは定かではない。この駅名について、少なくとも私のTwitterのタイムラインにおいては、否定的な意見が多かったように思う。しかし、私はけして嫌いではない。新しい時代に流されるのと適応するのと乗っかっていくのとには、どこに差があるのかはよく分からないのだが、ファシズムやレイシズムやセクシズムに加担でもしていない限り、否定するような気にはあまりなれないし、これからもそうありたいと思っている。

 

この後、「Love Me Do」とプリンスのカバー「When 2 R In Love」の次の曲は、出だしで「あっという間に終わるというよ」と歌われる。そう、もう最後の曲なのである。これはこのアルバムそのもののことを歌っているのかと思いきや、それは「少年と少女の日々」であった。

 

「あの公園で会おう」という曲である。ジョン・レノンでいうところの「ストロベリー・フィールズ」やプリンスにおける「ペイズリー・パーク」を思わせなくもない、その大切な場所は、うまくいっている時には忘れてもいいが、必要な時にはいつでもそこにある。やはりこの曲はこのアルバムと、それが象徴する優れたポップ・ミュージックについても歌われているのではないか、という気もしてきた。