GREAT3「METAL LUNCHBOX」について。 | …

i am so disappointed.

日本のロック・バンド、GREAT3の2作目のアルバム「METAL LUNCHBOX」が、1996年6月19日にリリースされた。

 

このバンドの最初のシングルがリリースされたのはこの前の年、1995年7月5日で、タイトルは「Fool & the Gang」であった。当時、私は一部のアーティストの作品を除いて、日本のポップ・ミュージックをあまりちゃんと聴いていなかったのだが、「ロッキング・オンJAPAN」は買ったり買わなかったりしていた。そして、買うとちゃんと読んでいた。GREAT3のインタヴューはモノクロのページだったと思うのだが、新しいバンドでありながら、かなり自信がありそうであった。そして、私が全米ヒット・チャートをチェックしはじめてから5曲目のNO.1ヒットであった、「セレブレーション」を歌っていたグループ名とかけたようなシングルのタイトルもおもしろいと思った。

 

翌年、「METAL LUNCHBOX」がリリースされる頃になると、「ロッキング・オンJAPAN」での扱いももう少し大きくなっていた。しかし、その時点で、私はこのバンドの作品を一度も聴いたことがなかった。アルバムに収録されたある1曲の歌詞について書かれていたのだが、それによるとこの曲の主人公は、取り壊されて門だけが残された家のインターフォンンを何度も押しながら、泣いているのだという。これは良い、となにか感じるものがあった。

 

当時、仕事をしていた広告代理店から幡ヶ谷のマンションに帰ると、夜、遅くなっていることも少なくなかった。TVKことテレビ神奈川をつけると、GREAT3の「Little Jの嘆き」のミュージックビデオが流れていた。晴れた日のアウトドアでスポーティーなことをやっているような雰囲気があり、曲の感じも少し聴いただけだとなんとなくおしゃれではあるのだが、神様、僕はダメだよとかそういうことを歌っていて、なるほど、「ロッキング・オンJAPAN」に載っていたあれか、と思った。

 

甲州街道の横断歩道を渡ったところに文華堂という書店があり、そこの2階でビデオとCDのレンタル、ゲームソフトの販売などをやっていた。はじめは1階の書店の奥の方でやっていたのだが、ある時期に2階に移り、売り場面積を大きく拡大した。幡ヶ谷駅のところに「超あるっす」とか書かれた、ポスターが貼られていた。そこで、「METAL LUNCHBOX」のCDをレンタルした。そして、カセットテープに録音した。

 

2曲目に収録された「マイクロ・マシーン」の「割れそうな頭と 週末の朝 笑えなくもない Good, Good Day」というフレーズが心に染みた。とても陽気な曲調であり、週末のはじまりに相応しい開放感にも溢れているのだが、歌いだしからして「悲しみの果ての果て」であり、「抱え込んだ 悲しみを 放り出して」という歌詞もある。曲の最後の方ではスティーヴィー・ワンダーの「アップタイト」のような感じになっていて、「Everything's all right」などとも歌われているのだが、その前が「そうさ」なのか「So sad」なのかよく分からない。とにかくポップでキャッチーなグッド・ミュージックなのだが、その根底には悲しみがある。それは、当時の私の感覚にもフィットするものであった。

 

ところで、1曲目は「崖」という曲なのだが、夢見るようなピアノの伴奏に合わせて、崖っぷちを踊り続けた日々も終わり、いまでは「君」を下から見るだけなのだという。どうやら崖から落ちてしまったようなのだが、傍らに咲いているのは「夢」だという。はじめはヴォーカルが片方のスピーカーからしか聴こえず、もしかして故障しているのかと思ったりもしたのだが、この違和感があるのだが気持ちいい、どこかいびつではあるのだが美しいという感覚は、ずっと続いていくことになる。

 

「DISCOMAN」は先行シングルとしてもリリースされていた曲だが、それにしてもなんというタイトルだろうか。清々しいほどに最高である。ものすごくキャッチーなメロディーとサウンドなのだが、歌詞の内容はというと、マンションのロビーでドーナツの匂いがして、バランスが取れないまま笑ったり泣いたりを繰り返すという、情緒不安定で危なげなものである。にもかかわらず、誰よりもうまくやってやるさとか、かなわない夢もかなえてみせるとか、そんなことも歌っている。理想と現実とのギャップにリアルに悩み苦しみ、もしかするとこれはダメなんじゃないかな、などとも思いがちな年代であり状況でもあった私の心に響きまくった。

 

そして、「Little Jの嘆き」である。どこか懐かしさも感じ、和み系といえなくもないイントロに少しセンチになっていると、その後に繰り広げられるのは、狂気寸前のセンチメンタルであった。終わりかけている恋人にとっての自分自身を、噛みすぎて味もなにもしなくなってしまったガムに例える。強がり、抵抗するわけでもなく、「神様 あぁ 勝ち目はない 僕は ダメだよ 憎めない さよならも いえない あぁ」というどうしようもなさであり、これがもうとにかく最高である。

 

そして、2コーラス目であの、門だけが残された家のインターフォンを押しているうちに泣いていたというくだりであり、「悲しいわけじゃないんだ 少し憂うつな気持ちだっただけさ」ときたものである。「君が誰かに 君は誰かと 希望に 絶望に このまま狂わされたって」のところもまた、たまらない。

 

気が狂うほどに欲しかったものというのはけして手には入れられないもので、その悲しみと絶望をかかえながら、それでも人は生きていくという、おそらく17歳ぐらいの頃の私であればちょっとなに言っているか分からなかったことが、この頃にはリアリティーとして分かりまくっていた(分かりみが深い、という言い回しはこの時代にはまだ無かった)ので、これは本当にヤバい曲だと思った。しかも、これのミュージックビデオというのが、居酒屋の打ち上げ会場のようなところで大人数で撮影されている場面などもあり、「神様 あぁ」の「あぁ」のところで、陽気に振り付けみたいなことをやっていたりする。これにもまた、たまらないものがある。

 

この頃の感情のほとんどを私はもうすでに忘れてしまったし、感じる機能も永久に失われてしまったとは思うのだが、この曲を聴くと、当時のざわざわが色々と思い出されたりもして、かさぶた剥がし的な快感がある。

 

次の「Night Rally」がまた最高で、駐車場のくだりがRCサクセション「スローバラード」を思わせもして、「このまま何も変えないで」は「悪い予感のかけらもないさ」なのだな、と思ったりもする。可愛がっている犬をダッシュボードに乗せて二人はドライブという描写もアメリカンシネマみたいでカッコいいし、オルタナティヴ・ロック的でもありながらスケール感も感じられ、「恐がることない僕が君を守ってゆこう 太陽が燃え尽き力尽きてしまうまで」とか言い切ってしまうあたりもたまらない。

 

「サムライ」はオルタナティヴ・ロック的なインストゥルメンタル曲で、これも良い。まったく関係ないが、下北沢にあるRojiura Curry SAMURAI.というスープカレー屋さんは、とても美味しい。

 

タイトル・トラックの「METAL LUNCHBOX」は「朝目が覚めたら強風波浪注意報」という歌い出しからめくるめくポップ・ミュージックの洪水というか、いくつもの楽曲のアイデアを1曲にまとめ上げたような、ジェットコースター的かつ幕の内弁当的な楽しみが味わえる曲である。ビースティ・ボーイズやレッド・ツェッペリン、90年代の渋谷、カントリー風、父さん母さんもういかなくちゃ、楽しかったクリスマスとか、情報量が驚異的である。

 

「G-Surf」では、行く先々で自分を追い詰めたくなった様にとか、破滅の一歩手前で余裕をカマすのさというような歌詞の後に、何度も繰り返される「夢の SURFER GIRL」というフレーズに、すべては収束されていく。

 

「STAR TOURS」もシングルでリリースされた曲だが、「夏の雨 キャッチボール 失くした恋 ときめきとか わかるけど ずっとそこに いるわけには いかないだろ?」と本質をいきなり突いてきたかと思いきや、「悲しみより速く 諦めより速く 慰めより速く」、そして、「Do Wah Diddy Wah Do Baby」、「きっと死ぬまで ギリギリなんだ 愛を頼りながら 寂しい夜を のりこえていこう」というわけで、この曲に本当に救われたような夜も確かにあったが、その感覚をまったく思い出すことができない。

 

「Sampedoro Gold」もまた、たまらない曲である。とても綺麗な足をしているが、あまりにも醜い顔の女の子という表現に、当時はかなりドキッとしたものだが、今日ではこれはルッキズムの観点からどうなのか、などと感じてしまう。これを悲しいことだとは思わないし、時代は変わる。「それでも世界は美しい」、それはそうとして、2コーラス目の「壊せるものなら壊してみろよ立ち直れないくらい それくらいじゃ痛くもないもっともっとやれよ」のくだり、そして、オレンジ色のプラスチック製で15センチのイエス・キリストなど、やはりどこかで見たことがあるようでもあるが、日本語のポップ・ミュージックとしてはとても独特な感性だと思う。

 

そして、「嫉妬」がまた、ひじょうにまずい曲である。いまだからこそ冷静な気持ちで聴くこともできるが、もし自分自身がこの曲で表現されているようなシチュエーションにいたとするならば、胸をかきむしられるというか、壁に頭を血が出るまで打ち続けたくなるような、狂おしい想いに溢れ、それを端的にあらわしたような楽曲である。

 

「愛することはむずかしい 恋におちても」などと歌われると、私自身も恋には幾度となくおちたものの、愛したことなどはもしかすると一度もなかったのではないか、というような気分にさせられる。「ごめんねごめんねごめんごめんね本当にいつも」「嫉妬嫉妬嫉妬いつでも俺の方が良いと言ってくれ」というフレーズが、かなりどストレートに突き刺さる。マックス値ほどの感情にはいまやもう遠く及ばないが、それでもかなり来るものがある。

 

「ビーチボール」もまたとても良い曲で、別れた恋人がふくらませてくれたビーチボールが、もう会うこともないであろうその人の息を閉じ込めたまま、冬を越え、また夏を迎える、しぼみながら、という未練がましくも女々しくて最高の曲である。「きらめき失くした僕はまたここで 死ぬ気なんてないくせに そっと目閉じる」も素晴らしいのだが、「いつだって 君だけは 笑わずに いてくれた 後ろ指 さされても 気にしないで」には、RCサクセション「僕の自転車の後ろに乗りなよ」の「君はいつもぼくを愛してる 君だけがぼくの味方だった時もあった」「君は言ってくれた ぼくは悪くない ぼくは悪くない ぼくはそれほど悪くない ぼくはそれほど悪くない ぼくはそれほど悪くない ぼくはちっとも悪くない 君だけさ 忘れない」に近いものを感じたりもする。

 

そして、「Last Song」と題された、アルバムの最後に収録された曲は、夏の海岸沿いで花火の音も聴こえてくような曲である。恋は終わりかけているようでもあるが、けしてそうではないようでもある。何一つ曇りのない至上の愛、というようなものが理想ではあり、そうでないものなどは不純である、青春を描いたラヴ・ソングならばそれで良いし、そうあるべきである。

 

この曲に登場するカップルは砂浜でロケット花火をするのだが、「うんざりするため息 つきながら マッチが折れるぐらい 強く火をつけた」し、「こうして 僕らは少しずつ すりきれながら それでも最後は 笑えると こんなになるまで信じてた」というような状態であり、「あきらめる気はあるかい? わかりあえるなんてことは 期待しないで」などとも言ったりする。これに当時の私はすさまじいリアリティーを感じたし、いまもその感覚はずっと続いているといっても過言ではない。このような感情をいだいている人々は、この世の中にけして少なくはないような気もするのだが、どうだろうか。

 

「どうしても君がいとおしい 目の前で笑う 君が全てだ これでいい そうこれでいい これでいいんだ」

 

ポップ・ミュージックは救いにもなりうる、ということを、当時の私はこの曲によって、身を持って実感した。意図的に遠ざけようとしていた時期もあったのだが、今朝、発売記念でもあるしこの素晴らしいアルバムのことをブログで書いてみようかと軽い気持ちで聴き直したところ、本当に良すぎて、間違いなく私の人生において重要なアルバムの1枚だな、ということを実感した。

 

いまはなき幡ヶ谷の文華堂でレンタルしたこのCDだが、後日ちゃんと買ったということは記録しておきたい。現在、Spotifyなどで配信されている「METAL LUNCHBOX」には、これにシングル「GLASS ROOTS」などがボーナス・トラック的に追加されているようである。