1986年の夏休みといえば大学に入学してからはじめての帰省であり、すすきのにあった友人のアパートで真夜中に一人で「MTV」を観ていた記憶がある。その頃、友人は居酒屋でアルバイトをしていた。ピーター・ガブリエル「スレッジハンマー」、マドンナ「パパ・ドント・プリーチ」の印象が強いが、いずれもこの時期に全米シングル・チャートで1位を記録している。
そして、RUN D.M.C.の「ウォーク・ジス・ウェイ」である。この曲はこの年の5月15日にリリースされた、RUN D.M.C.にとって3作目のアルバム「レイジング・ヘル」からのシングル・カットである。エアロスミスの「ウォーク・ジス・ウェイ」は1975年のアルバム「闇夜のヘヴィ・ロック」からシングル・カットされ、全米シングル・チャートで最高10位、邦題は「お説教」だったという。当時、私はこの曲を聴いたことがなかった。エアロスミスといえば1970年代のバンドという印象であり、当時もレコードを出してはいたのだが、ヒット・チャートを追いかけている音楽ファンにとっては、現役感をそれほど感じない存在であった。
ヒップホップはニューヨークのサブ・カルチャーとして、1980年代の前半に日本のメディアでも紹介されることがあったと思う。私は確か「宝島」で読んだのだが、ラップ、ブレイクダンス、グラフィティ・アートから成るストリート・カルチャーという印象であった。グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイヴが、イギリスのシングル・チャートでは上位にランクインしていた。1983年にマルコム・マクラレンがリリースしたアルバム「俺がマルコムだ!!」でもヒップホップが取り上げられていて、わりと気に入って聴いていた。ラップを取り入れたヒット曲といえばブロンディ「ラプチュアー」やトム・トム・クラブ「おしゃべり魔女」などがあった。1983年からニューヨークに渡った佐野元春が翌年にヒップホップからの影響を受けまくった問題作「VISITORS」をリリースし、戸惑いと喝采とに迎え入れられる。ヒップホップといえば、レコード盤を針でこすった音を出すスクラッチという手法が話題にもなったが、これを取り入れたハービー・ハンコック「ロックイット」なんていうのもあった。アフリカ・バンバータのことを渋谷陽一が取り上げていたので、信者寄りのファンであった(そして、いまでも!)私はもちろんジェームス・ブラウンとコラボレートした「ユニティ」やジョン・ライドンとのタイム・ゾーンでの「ワールド・ディストラクション」、クラフトワークをサンプリングしたことで話題になった「プラネット・ロック」など、12インチ・シングルをいろいろ買ったりもした。
RUN D.M.C.もそれまでにすでに2枚のアルバムをリリースしていて、いずれも高評価を得ている上に、1985年の夏に行われたチャリティ・ライヴ・イヴェント「ライヴ・エイド」に出演するなど、ブレイクの兆しはじゅうぶんであった。
ヒップホップというジャンルそのものも、RUN D.M.C.も、ここらで全米シングル・チャートでのヒット曲でもあれば、大きく跳ねるチャンスなのに、という感じにはもうじゅうぶんになっていたのだろう。
RUN D.M.C.の2作目のアルバム・タイトルは「キング・オブ・ロック」だが、ラップとロックのクロスオーヴァーというか、ロックのサウンドにのせてラップをする手法というのは、もうすでに完成していた。「ウォーク・ジス・ウェイ」にしても、当初はエアロスミスの懐かしのヒット曲のトラックにのせてラップしてみようというようなものらしかったのだが、結果的にカヴァー、しかもエアロスミスのスティーヴン・タイラー、ジョー・ペリーが参加することになったのだという。
すすきのの友人のアパートのテレビに映る「ウォーク・ジス・ウェイ」のミュージック・ビデオにおいて、エアロスミスのロックは過去を、RUN D.M.C.によるラップは未来を象徴しているように、少なくとも私には見えた。少し前の世代のラッパーはファンクなどの影響を受けてなのか、どこかスター然とした派手なファッションを好みがちな印象があったのに対し、RUN D.M.C.はストリートの私服といえるような服装で、アディダスのスニーカーを紐を外した状態で履いていた。それがたまらなくクールに写り、いわゆるヒップホップ・ファッションとして、ファッション雑誌でも取り上げられるようになった。私もドクター・マーチンのブーツをやめて、アディダススーパースターを履くようになるのだから、ミーハーな野次馬感がハンパないのだが、こんな自分が嫌いではない、というかむしろ積極的に好きすぎてバカみたい(DEF.DIVA)。
しかし、これがどうやらエアロスミスにとってもプラスにはたらいたのかどうかは定かではないが、翌年にリリースしたアルバム「パーマネント・ヴァケイション」が久しぶりにヒットし、人気も回復したり新しい世代のファンを獲得するようになった。後に映画「アルマゲドン」のテーマ・ソングを歌って大ヒットして、笑い飯の「宇宙戦争」の漫才のオチに使われるほどのポピュラリティーを獲得するのだから、分からないものである。
「ウォーク・ジス・ウェイ」がついに全米シングル・チャートの10位以内に入ったのが9月6日付で、大学の後期はまだはじまらないので、私は相変わらず帰省中であった。夜に札幌で待ち合わせをしたのだが、風はすでに肌寒くもあり、水商売のアルバイトをしていた高校時代の同級生の女子はジャケットを着てきていた。その週の1位がバナナラマ「ヴィーナス」なのだが、東京、というか厳密には相模原に戻る前夜に旭川のディスコでナンパした歯科衛生士にフラれた時に流れていたのが、まさにこの曲だった。
東京、というか厳密には相模原に戻ってから、「ウォーク・ジス・ウェイ」は最終的に全米シングル・チャートの4位まで上がり、これはラップのシングルとしては過去最高の記録であった。小田急相模原のイトーヨーカドーの斜め向かいにあったレコードレンタル友&愛で、「レイジング・ヘル」をレンタルした。「ウォーク・ジス・ウェイ」が目当てだったのだが、アルバム全体が思っていた以上に音楽的だったことに驚いた。「イッツ・トリッキー」は、トニー・バジル「ミッキー」やザ・ナック「マイ・シャローナ」といった、マイルドに懐かしい楽曲を絶妙に調理して、まったく新しくて刺激的なポップスを生み出していることに感激した楽曲である。
それから、渋谷の道玄坂にあったレコード店、CSV渋谷のバーゲンで、ピーター・ガブリエル「SO」などと一緒にCDを買った。私が生まれてはじめて買ったヒップホップのアルバムであった。当時、ヒップホップは最も新しいポップ・ミュージックにおけるアートフォームで、ターンテーブルとリズムボックスのようなものによって作れるという点において、黎明期におけるパンク・ロックにも通じるDIY精神も感じられた。カネやテクニックよりもアイデアと情熱が重要だという、その辺りに美しさを感じ、実際に大貫憲章など、パンク/ニュー・ウェイヴの紹介者が賞賛していたという印象がある。
この年の秋に近田春夫がPRESIDENT B.P.M.の名義で日本語によるラップのレコード「MASSCOMMUNICATION BREAKDOWN」をリリースするのだが、この曲にも参加し、カップリング曲として「I LUV GOT THE GROOVE」が収録されていたTINNIE PUNXは高木完と藤原ヒロシである。「腰で履いてるボンデージパンツ 心はいつでもオリジナルパンクス」のライムに、私は当時、現実的に泣いた。そして、その気持ちをいまでもかなり薄められたヴァージョンであるとはいえ、覚えてはいる。
