1985年5月4日付の全米トップ40で記憶に残る10曲と個人的な思い出について。 | …

i am so disapointed.

1985年のちょうど今頃、5月4日付の全米トップ40にランクインしている曲の中から当時の気分が伝わりそうな10曲を選んでカウントダウン、余談として個人的な感想や思い出も加えていくというここではお馴染みのパターンである。

 
私が旭川の高校を卒業し、東京で一人暮らしをはじめてから約1ヶ月が経った辺りという、個人的になかなか記憶に残りがちな時期でもある。
 
10. WE ARE THE WORLD/USA FOR AFRICA
 
豪華アーティストが多数レコーディングに参加したチャリティー・シングルで前の年の暮れにイギリスで大ヒットしたバンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」にインスパイアされたものである。曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーによって書かれ、クインシー・ジョーンズとマイケル・オマーティアンがプロデュースした。この前の年にブレイクしたばかりのシンディ・ローパーが個性を発揮していて、ブルース・スプリングスティーンはエモーショナルなヴォーカルを聴かせる。
 
この曲のビデオはまだ旭川にいた頃にテレビで観たが、池袋の西武百貨店のエスカレーターのそばに大きなスクリーンがあり、それを観ていたことを覚えている。当時、私が住んでいた大橋荘というアパートは都営三田線の千石と巣鴨の間にあり、巣鴨といえば山手線も使えるので、レコードや本を買う場合には2駅しか離れていない池袋に行くことが多かった。
 
「おいしい生活」「不思議、大好き。」というような空疎なフレーズがなんとなく文化的でありがたいものであるかのように思われていた時代、西武百貨店やパルコは時代の最先端を行っているようにも思われていて、その店が池袋にあったため、新宿や渋谷まで行く必要性をそれほど感じていなかった。
 
この曲は全米シングル・チャートで1位を記録するが、これがこの年の夏に開催された大規模なチャリティー・ライヴ・イヴェント「ライヴ・エイド」につながっていった。
 

 

We Are The World We Are The World
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9. THINGS CAN ONLY GET BETTER/HOWARD JONES
 
1980年代になるとシンセサイザーを効果的に用いたポップスが流行するようになった。人間的ではなく機械的なところがその主だった魅力のように感じたのだが、1984年にリリースされたハワード・ジョーンズのデビュー・アルバム「かくれんぼ」は、シンセ・ポップなのにとても人間味が感じられるタイプの作品であり、新鮮だったのと同時にポップ・ミュージックの新たな可能性を感じさせてくれた。
 
この曲は2作目のアルバム「ドリーム・イントゥ・アクション」からのリード・シングルで、全米シングル・チャートで最高5位と、本国であるイギリス以上のヒットを記録した。よりメジャーなサウンドになっていて、個人的にはデビュー・アルバムの頃の方が好きなのだが、先日、観ていたアメリカのテレビドラマ「ウォッチメン」で使われていて魅力を再認識した。

 

 

 
8. WALKING ON SUNSHINE/KATRINA AND THE WAVES
 
まったく知らないバンドだったのだが、ある日、FMラジオで聴いて、これはポップで明るくて良いぞと思ったのだった。全米シングル・チャートでは最高9位を記録している。
 
当時、私が住んでいた大橋荘の部屋は文京区にもかかわらず家賃が2万円台の四畳半、風呂なし、日当たりも良くなかった。壁も薄く、日曜日などは「オールナイトフジ」を明け方まで観て寝ていると、「笑っていいとも増刊号」の「タモリ・さんまの日本一の最低男」を観ていると思われる隣人の笑い声で起こされるというようなこともあった。予備校生だったのでもちろん贅沢はいえず、しばらくは「夕やけニャンニャン」と紋別の看護学校から届く手紙を主だった希望として生活をしていた。
 
そのような状況からしてみれば、実家から持ってきたラジカセの小さなラジカセから低音量で流れるこの曲は、あまりにも楽しげで眩しすぎた。とりあえず勉強を頑張ろうと思った。

 

 

Katrina & The Waves Katrina & The Waves
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7. I’M ON FIRE/BRUCE SPRINGSTEEN
 
旭川で最後の高校生生活を送っていた1984年のサウンドトラックといえば、ザ・スタイル・カウンシル「カフェ・ブリュ」、佐野元春「VISITORS」、ブルース・スプリングスティーン「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」、プリンス「パープル・レイン」などが思い浮かぶ。
 
マイケル・ジャクソン「スリラー」や第2次ブリティッシュ・インヴェイジョンが流行していた時代において、「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」は初めてリアルタイムで触れるオーセンティックなアメリカン・ロックでもあり、そういった意味でもとても印象に残るアルバムであった。とはいえ、リード・シングルの「ダンシング・イン・ザ・ダーク」はシンセサイザーの導入が印象的な曲で、ダンス・リミックスも制作されたりと、時代のトレンドに対しての目配せは絶妙にされていたのであった。
 
この曲は「ダンシング・イン・ザ・ダーク」カヴァー・ミー」「ボーン・イン・ザ・U.S.A.」に続く4枚目のシングルとしてカットされ、全米シングル・チャートで最高7位を記録した。アルバムではA面の最後に収録されていて、シングルにしては地味すぎるのではないかとも思ったのだが、ちゃんとヒットしていた。

 

 

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6. EVERYTHING SHE WANTS/WHAM!
 
イギリスでは1984年の暮れに「ラスト・クリスマス」との両A面シングルとしてリリースされて、シングル・チャートで最高2位を記録した。1位はジョージ・マイケルも参加していたバンド・エイドの「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス?」であった。
 
ワム!のデビュー・アルバム「ファンタスティック」はイギリスで1位、日本でも19位だったのに対し、アメリカのアルバム・チャートでは最高83位に終わっていた。当時はアメリカにおけるアーティスト名がワム!UKだったような気がする。
 
しかし、2作目のアルバム「メイク・イット・ビッグ」からのリード・シングル「ウキウキ・ウェイク・ミー・アップ」がイギリスよりも少し遅れてリリースされると全米シングル・チャートで1位を記録した。やはりイギリスよりも少し遅れてリリースされた「ケアレス・ウィスパー」に続いて、「恋のかけひき」という邦題が付いたこの曲まで3曲連続しての1位となった。
 
物欲が強い女性に幻滅する男性の立場から書かれたダークなシンセ・ポップという感じで、いかにも1980年代らしいテーマだともいえる。この少し前にはマドンナの「マテリアル・ガール」がヒットして、この週にもまだトップ40内に留まっていた。

 

 

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5. CRAZY FOR YOU/MADONNA
 
マドンナはこの前の年にリリースされた2作目のアルバムからのリード・シングル「ライク・ア・ヴァージン」で初の全米シングル・チャート1位を記録し、次にカットされた「マテリアル・ガールも最高2位と勢いにのっていた。続いてリリースされたのは「ライク・ア・ヴァージン」のアルバムではなく、映画「ビジョン・クエスト/青春の賭け」のサウンドトラックからで、しかも初のバラードであった。これが全米シングル・チャートで1位を記録し、マドンナのアーティストとしての音楽的な幅を広げることにもつながったような気がする。
 
当時の音楽ファンがアメリカのヒット曲をいち早く聴く方法として、FENがあった。日本に駐留しているアメリカ軍人やその家族のためのラジオ放送局で、現在はAFNと呼ばれている。旭川にいた頃は短波放送の雑音まじりで受信していたのだが、東京ではAMラジオのクリアな音質で楽しむことができる。この頃はそれにとても感動して、よく聴いていたのだが、この曲は本当によくかかっていた。
 

 

 
4. SMOOTH OPERATOR/SADE
 
シャーデーのデビュー・アルバム「ダイアモンド・ライフ」からシングル・カットされ、全米シングル・チャートで最高5位を記録した。「ダイアモンド・ライフ」はイギリスでは前の年にリリースされ、すでにヒットしていたし、日本でも流行の最先端を行っている人達などを中心に話題になっていたのだが、アメリカではこの年の2月にやっと発売されたばかりであった。
 
ヴォーカルのシャーデー・アデュがモデル出身であるという情報やジャジーでおしゃれな音楽性が、カフェバー、デザイナーズ・ブランド、ハウスマヌカンなどが持て囃された当時の東京の雰囲気にもマッチしていたような気がする。
 
ソフィスティ・ポップの名盤としての評価も定着しているが、当時、これを大橋荘のラジカセで聴いていた私は、果たして正しくリアルタイムで体験したと言い切れるのだろうか。

 

 

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3. SOME LIKE IT HOT/THE POWER STATION
 
パワー・ステーションはデュラン・デュランのアンディ・テイラー、ジョン・テイラーが所属するスーパー・バンドとして話題になった。他のメンバーはロバート・パーマーにシックのトニー・トンプソン、プロデューサーは同じくシックのバーナード・エドワーズであった。
 
今回、この記事をつくるために久しぶりにちゃんと聴いてみたのだが、記憶に残っていたよりもずっとカッコよかった。特にトニー・トンプソンのドラムがデカくて良い。タイトルがマリリ・・モンロー主演映画「お熱いのがお好き」の原題と同じだということを、当時はまだ知らなかった。
 
まったくの余談だが、食事ができるライヴ・ハウスとして話題になった日清パワーステーションが新宿で開業するのは、これよりも3年後のことである。
 
2. DON'T YOU (FORGET ABOUT ME)/SIMPLE MINDS
 
映画「ブレックファスト・クラブ」で使われ、全米シングル・チャートの1位に輝いた。1979年にデビューしたシンプル・マインズはイギリスでは人気があったが、アメリカではそれほどでもなかった。全米シングル・チャートの100位以内に入った曲が、1つもなかった。この曲は映画のためにプロデューサーによって書かれ、シンプル・マインズが念頭に置かれていたということなのだが、バンドは自分達の曲しかやりたくないなどの理由で断ったらしい。それからブライアン・フェリーやビリー・アイドルのところに話がいくがいずれも断られ、コリー・ハートでいくという案も却下され、結果的にやはりシンプル・マインズがやることになった。
 
日曜日に池袋に買物に行くと、パルコか西武百貨店でこの曲が流れていて、とてもメジャーなロック・サウンドだなと思った。これこそがいまにの時代の音であり、私はそれをリアルタイムで楽しんでいると強く認識した。
 

 

 

1. EVERYBODY WANTS TO RULE THE WORLD/TEARS FOR FEARS

 

そして、これも日曜日の池袋、パルコか西武百貨店で流れているのを聴いて、これこそがいまどきのサウンドだなと思った1曲である。デビュー・アルバムに収録されていた「ペイル・シェルター」がわりと好きだったのだが、もっと繊細な感じがあったと思う。2作目のアルバム「シャウト」ではサウンドがかなりメジャーになり、それが功を奏してかアメリカでも売れた。

 

内容も支配欲のようなものについて歌われていて、自己中心主義や物質主義のイメージが強い、当時の空気感に合っていたような気がする。

 

バブル景気のきっかけとなったのはこれから数ヶ月後のプラザ合意で、同じ頃にパルコ出版から発行されていた雑誌「ビックリハウス」が休刊になった。とんねるずの連載がはじまってから、それほど経っていなかったのではないかと思う。