スターズ・オン「ショッキング・ビートルズ45」について。 | …

i am so disapointed.

洋楽のレコードを初めて買ったのは1980年で、ポール・マッカートニー「カミング・アップ」のシングルだった。この年の1月にポール・マッカートニーの来日公演が予定されていたのだが、大麻の不法所持で逮捕され、当然、公演も中止になった。

「カミング・アップ」がリリースされたのはその数ヶ月後で、ビートルズもポール・マッカートニーもよく知らなかったのだが、ラジオでよくかかっていてわりと気に入っていたし、中学2年になったのだし、そろそろ洋楽のレコードでも買ってみようか、という気分だったような気がする。それにあたり、ドラッグで捕まったアーティストのレコードを買うという行為がなんとなくカッコいいという、中二病(当時、この言葉は存在していなかったが、実際に私は中学2年生であった)的な要因もあったに違いない。

全米ヒット・チャートをチェックするようにもなったのだが、日本でもひじょうに人気があったビリー・ジョエルを好んでいた以外には特に確固たるテイストも定まっていなく、ヒット・チャートの上位に入っているようなものを適当に聴いていた。

この年の暮れにジョン・レノンが射殺されるのだが、それまで熱心に聴いたことがなかったので、特に思い入れもなかった。しかし、ラジオの特集を聴いたりしているうちになんとなく良いのではないかと思ってきたし、「スターティング・オーヴァー」が全米シングル・チャートで1位になったこともあり、年が明けてお年玉でこの曲が収録されたアルバム「ダブル・ファンタジー」を買った。オノ・ヨーコの「キス・キス・キス」にセクシーな声が入っていて、とても刺激が強かったし、親がいつ部屋に入ってくるか分からないような家だったので、あまり聴かなかったような気がする。

ラジオ関東の「全米トップ40」ではビルボードのチャートを発表していたが、当時、定期購読していた「オリコン・ウィークリー」に掲載されていたのはレコード・ワールドのものであった。1位になった曲はとりあえずシングルを買っていたが、ビルボードで1位になったがレコード・ワールドではならなかったエディ・ラビット「恋のレイニー・ナイト」は持っていなかったし、この逆パターンであるジュース・ニュートン「夜明けの天使」は持っていた。

ビルボードではジョン・レノン「スターティング・オーヴァー」の次に1位になったのがブロンディ「夢見るNo.1」で、その後、クール&ザ・ギャング「セレブレーション」、ドリー・パートン「9時から5時まで」、エディ・ラビット「恋のレイニー・ナイト」、REOスピードワゴン「キープ・オン・ラヴィング・ユー」、ブロンディ「ラプチュアー」、ダリル・ポール&ジョン・オーツ「キッス・オン・マイ・リスト」、シーナ・イーストン「9 to 5(モーニング・トレイン)」、キム・カーンズ「ベティ・デイビスの瞳」と続くのだが、この次がスターズ・オン「ショッキング・ビートルズ45」であった。

アーティスト名が日本ではスターズ・オンと表記されていたが、アメリカではスターズ・オン45、イギリスではスターサウンドであった。同じアーティストなのに、国によって呼び方が違う。オランダのスタジオ・ミュージシャン達がビートルズの曲をメドレーでカバーした、いわば企画盤であり、イギリスでもシングル・チャートで最高2位のヒットを記録したということであった。歌声が本物と間違えるぐらい似ていると、ラジオのパーソナリティーは言っていた。ジョン・レノンが亡くなった後、テレビではビートルズの特集が組まれることもあり、それらを観ることによって、私はビートルズの音楽にはじめて主体的にふれたが、レコードを買ったりはまだしていなかった。しかも、「ショッキング・ビートルズ45」でカバーされていたのは、ビートルズの楽曲の中でも超有名な大ヒット曲ばかりというわけではなかった。

ビートルズのメドレーに入る前に、ショッキング・ブルー「ヴィーナス」、アーチーズ「シュガー・シュガー」もカバーされていて、邦題に「ショッキング」と付いているのは、このためである。「ヴィーナス」は後にバナナラマによるユーロビート風のカバーが大ヒットしたり、モーニング娘。「LOVEマシーン」に引用されたりもした。

「ショッキング・ビートルズ45」の原題にはメドレーに登場するすべての楽曲のタイトルが含まれ、やたらと長いものになっていた。当時、私は旭川のミュージックショップ国原というレコード店に、ビルボードと提携していた日本の音楽業界誌「ミュージック・ラボ」付録のチャートの紙を取りに行っていたが、1981年6月20日付の1位にはあのものすごく長いタイトルが掲載されていたことを覚えている。

このような企画盤が全米シングル・チャートの1位になることを私がくだらないと思ったかというとまったくそんなことはなく、寧ろこういうのがわりと好きであった。というのも、この少し前の日本では、こういったタイプのメドレーものがわりと受けやすいという傾向があった。

たとえば、1976年にリリースされたマイナー・チューニング・バンド「ソウルこれっきりですか〜歌謡ヒット・イン・ディスコ’76」は、当時の日本のヒット曲をディスコ調のアレンジでメドレー化したもので、タイトルの「これっきり」は山口百恵「横須賀ストーリー」からの引用である。この曲はオリコン週間シングルランキングで最高2位と思いがけないヒットを記録し、テレビ番組でパフォーマンスする機会が生じた。レコードで歌っていたのはシンガーズ・スリーだが、テレビ出演用にダミーのグループを結成することになり、メンバーがオーディションで選ばれた。これが後にテクノ歌謡として再評価される「宇宙人ワナワナ」などをリリースしたアパッチである。

1977年には六本木のバーのマスター、平野雅昭によるコミカルな演歌メドレー「演歌チャンチャカチャン」がオリコン週間シングルランキングで最高3位のヒットを記録した。他にも清水アキラ、桜金造、アゴ勇などが所属したお笑いグループ、ザ・ハンダースがザ・ワイルド・ワンズ「想い出の渚」を色々な人達の物まねでカバーした「ハンダースの想い出の渚」、CMソングやフレーズをメドレーにした団しん也とパロディー・シスターズ「ロック・トンデレラ」などがラジオから流れていた。また、ピンク・レディーはアルバム「星から来た二人」に9分以上にも及ぶ「コマーシャル・ソング・メドレー」を収録していた。

「ショッキング・ビートルズ45」のヒットを受けても、吉田拓郎の曲をメドレーにしたパロディー盤である「スターズ⭐︎オン23 吉田拓郎」がリリースされた。スターズ・オン45のパロディとしてのクオリティは高く、ハンドクラップが入ったディスコ調のリズムや、ボーカルの物まねの精度など、実によくできている。ボブ・ディラン「ライク・ア・ローリング・ストーン」を間違えて(?)歌ってしまうというオチがあったり、吉田拓郎が楽曲を提供した「襟裳岬」ではちゃんと森進一の物まねになっていたりと、芸も細かい。レコードジャケットも「ショッキング・ビートルズ45」のパロディになっていて、「空前絶後のメドレー集」が「食前食後のメドレー集」になっていたりする。

アーティスト名はBEAT BOYSで、正体はブレイクする前のアルフィーである。このグループ名自体がビートルズとビーチ・ボーイズを組み合わせたものらしく、メンバーはじょんのれん、ポール・マッカーサー、祥寺張扇(じょうじ・はりせん)と名乗っていた。リードボーカルはじょんのれんこと坂崎幸之助だが、美しいコーラスを聴くと、なるほどアルフィーだと納得することができる。ちなみにこの頃、BEAT BOYSはBE∀T BOYSではまだなく、アルフィーもTHE ALFEEではない。

スターズ・オン45はその後、ABBA、映画「スター・ウォーズ」、スティーヴィー・ワンダー、ローリング・ストーンズ等のメドレーをリリースし、「ショッキング・ビートルズ45」ほどではないが、ヒット・チャートにランクインさせていた。

スターズ・オン45の成功の影響もあり、この頃、ヒット・チャートにおいてちょっとしたメドレーブームのようなものが起こった。ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団によるクラシック音楽のメドレー、「フックト・オン・クラシックス」は全米シングル・チャートで最高10位、全英シングル・チャートでは最高2位を記録した。ラリー・エルハートとマンハッタン・スイング・オーケストラによるスウィング・ジャズのメドレー、「フックト・オン・スイング」も全米シングル・チャートで最高31位と、そこそこヒットした。

また、カバーではなく、アーティストのオリジナル音源を編集してメドレー化したビーチ・ボーイズ「ビーチ・ボーイズU.S.A.」、ビートルズ「ビートルズ・ムービー・メドレー」は、共に全米シングル・チャートで最高12位を記録した。これらのすべてが、1981年から1982年までの間に起こったのであった。あれは一体、何だったのだろう。

この後になると、1981年に開局した音楽専門のケーブルテレビ局「MTV」のブームがヒット・チャートに影響をあたえはじめ、マイケル・ジャクソン「スリラー」やデュラン・デュラン、カルチャー・クラブといった第2次ブリティッシュ・インヴェイジョン勢など、映像を効果的に使ったアーティスト達の活躍が目立っていく。そして、ちょっとしたメドレーブームのようなもののことなど、すぐに忘れ去られたような気がした。