クリスマスの記憶・断章。 | …

i am so disappointed.

子供の頃は教会が併設されたタイプの幼稚園に通っていたので、クリスマスの日はわりと盛り上がっていたような記憶がある。父兄も呼ぶということで、事前に飾りつけなども行っていたのだが、壁に花のかたちをしたものをセロテープをまるめて貼り付けるやり方はこの時に初めて学んだような気がする。普段は真面目なことを主に言っている神父さんやシスターが、陽気に手品を披露したりするのが面白かった。

 

シスターがティッシュペーパーからきれいな花を咲かせますとか言って、真ん中に穴をあけ、そこから自分の鼻を突きだすという手品については、子供心にしょうもないと思っていた。また、外国人の神父さんは「メレットロイ、メレメレットロイ」とかいうよく分からないおまじないと共に、わりとちゃんとした手品をやっていたと思うのだが、その内容についてはまったく覚えていない。シスターがティッシュペーパーからきれいな花を咲かせますとか言って、真ん中にあけた穴から自分の鼻を突きだすしょうもないやつの方はよく覚えているので、子供の頃からそういうのが好きだったのだろう。

 

その日は確か年内に幼稚園に行く最後の日で、イエス様が馬小屋で生まれるところをふりだしとした双六だとか、いろいろな物を受け取って帰ったはずである。

 

あと、父が務めていた会社で週末の夜にクリスマスパーティーのようなものがあり、ちゃんとした会場に家族を呼び、子供も退屈しないような企画もあったりした。はっきりと覚えていないのだが、ステージの上から女の子が紙飛行機のようなものを飛ばしている写真が、当時のアルバムに貼られている。

 

クリスマスの朝にはサンタクロースからのプレゼントが届いているわけだが、ミニカーがプラスチックのケースに入ったようなものが縦に連なっているやつとか、それらで遊ぶため立体駐車場的な玩具などが印象に残っている。

 

また、次々と飛んでくるピンポン球をプラスチックのバットで打ち返すタイプのバッティングマシーンというのがプレゼントされたこともあったのだが、ただただ怖くてほとんど遊ばなかった。

 

あと、「月光仮面」が流行したのはおそらく私の記憶にはない白黒テレビの時代だったと思うのだが、私が子供の頃にはアニメ版の「月光仮面」が放送されていて、それほど熱烈に好きだった記憶もないのだが、なぜか変身セットというやつをリクエストしてプレゼントされたことがある。ビニール樹脂のようなものでできたマントやベルトなどがセットになっていたと思うのだが、おそらく実際には数回しか変身しなかったのではないかと思う。その箱に「正義を愛する者」などと書かれていて、私が弟と喧嘩して泣かせたりすると、父から「正義を愛する者」が弟を泣かせていいのか、というようなことを言われ、面白なくて箱に印刷された「月光仮面」の前に鉛筆で「にせ」と書いたりもしていた。

 

エポック社のボードゲームのような物が流行っていたのだが、立体的な物がたくさん入っているという理由で、手さぐりゲームというそれほどポピュラーではないものを選んだ記憶もある。

 

1977年の春に旭川に引っ越したのだが、その頃に家庭用テレビゲーム機がポピュラーになりはじめたと思われ、任天堂のテレビゲーム15というオレンジ色の筐体をプレゼントされ、とても盛り上がったのを覚えている。その後のゲーム機のようにカセットやディスクを差し替えて色々なゲームが遊べるわけではなく、内蔵されているゲームが遊べるだけである。それでもデパートのゲームコーナーなどでしか遊ぶことができなかったテレビゲームが家庭でほぼ無限に遊べることは、当時の子供にとってはとても画期的なことであった。テレビゲーム15はその名の通り、15種類のゲームが遊べるというのが売りだったが、ほとんどが2つのラケットでボールを打ち合うタイプのもので、背景の色やフィールドの形やネットなどが変わることでテニスだとかバレーだとかピンポンだとかになっていた。7種類のゲームにダブルスを加えて14種類、あと1つは射撃ゲームのようなもので、動く的に対してタイミングよくコントローラーのボタンを押すというものだったような気がする。

 

翌年か翌々年にはエポック社のテレビ野球ゲームというのがプレゼントされ、これはクリスマス当日の早朝からかなり盛り上がり、それでもその日は学校があったのでちゃんと行って、帰ってきてからもずっとやっていた。その後の野球ゲームに比べるとヴィジュアルもサウンドもシステムもシンプルきわまりないのだが、当時は面白くてずっとやっていた。ホームランを打つと画面全体がピンク色になり、とても盛り上がったものである。

 

1978年のクリスマスケーキは、初めてアイスクリームタイプのものにしたのであった。理由は当時、ピンク・レディーが雪印のコマーシャルに出演していて、これを買うと「透明人間」の振り付けがパラパラ漫画形式の写真で載ったアクションブックなるものがもらえたからである。

 

あとは旭川の豊岡にあった市民生協のポパイという玩具店にずっと学研の電子ブロックというのが展示されていて、いろいろなブロックを組み合わせることによって、ラジオだとかうそ発見器だとかが作れるというものであった。子供が買ってもらうにしては高価だった記憶があるのだが、勉強にも役に立つという口実でクリスマスに買ってもらったような記憶がある。

 

旭川の西武百貨店でサンタクロースに手紙を書くとプレゼントがもらえるかもしれないという企画をやっていて、私は外れたのだが弟が当たった。プレゼントとしてもらえたのは「がんばれ‼︎ロボコン」の中でもそれほど人気があった方ではないロボペチャの超合金だったので、在庫処分的な企画だったのかもしれない。腕の注射器が意外とリアルで、着脱式になっていたような記憶がある。

 

1980年代になると急にクリスマスの記憶が少なくなるので、家族でなにかをやるということもあまりなくなったのか、私自身が積極的に参加しなくなったのか、どちらかだったと思う。

 

1984年は現在までのところ、私が旭川で最後に過ごしたクリスマスだが、友人の家に集まって泊りがけでクリスマス・パーティーをやった記憶がある。土曜日だったので、当時のカレンダーを確認するに12月22日だったようである。友人の家には夜中に大きな音を立てても大丈夫な離れがあり、そこで友人や知人の何名かによるバンドがハード・ロックというかヘヴィー・メタルのような音楽を演奏して、大いに盛り上がった。アースシェイカーの「MORE」は演っていたはずである。

 

バンド・エイド「ドゥ・ゼイ・ノウ・イッツ・クリスマス」、ワム!「ラスト・クリスマス」、マドンナ「ライク・ア・ヴァージン」などがヒットしていた頃のことだ。菊池桃子の「雪にかいたLOVE LETTER」というのもあった。というか、レコードを持っていた。

 

深夜に電気を消した状態で男子も女子も混じり合った状態で、STVテレビ「TV海賊チャンネル」をぼんやり眺めていた。にっかつロマンポルノの女優などが全裸になる「ティッシュタイム」のコーナーは、いつも通り放送されていた。当時は土曜日深夜のテレビ番組が話題になっていて、各局が力を入れていた。松本伊代のファンであった私はフジテレビ系の「オールナイトフジ」の方が観たかったのだが、残念ながらUHBこと北海道文化放送ではネットしていなかった。

 

翌年、1985年のクリスマス・イヴ、私は東京で予備校生であった。仲間たちの間でも緊張はすでに高まりつつある時期だが、相変わらず水道橋の森永LOVEで話し込んだり、後楽園でボーリングを楽しんだりはしていた。その日はJR水道橋駅の近くのマクドナルドにいた。予備校で知り合った友人の1人の女友達が日本武道館での爆風スランプのライヴに行く予定だが、友人が1人行けなくなってチケットが余っているので行く人を探しているということであった。爆風スランプは渋谷陽一が大絶賛して、ラジオ番組内で毎年やっていたロック大賞の座をRCサクセションから奪ったり、サンプラザ中野が近田春夫・原作、手塚眞・監督の映画「星くず兄弟の伝説」に出演したりと、この頃はまだサブカル的な受け方をしていたような印象がある。

 

日本武道館でのワンマンライヴにあたっては、12インチ・シングル「嗚呼!武道館」をリリースするなどして盛り上がっていた。という訳で行ったのだが、わりと楽しかったような気がする。次に日本武道館でライヴを観るのは確か翌年のRCサクセション、その後が1996年のビョークで、次が2015年のモーニング娘。’15だったと思う。鞘師里保が卒業直前だった時のやつだ。

 

1986、7年には「メリー・クリスマス・ショー」というテレビ番組が放送され、桑田佳祐や松任谷由実を中心に、人気アーティストがたくさん出演して即席ユニットでいろいろな曲を演るという楽しい番組であった。1987年の方には忌野清志郎も出演していて、山下洋輔がピアノを弾いて、桑田佳祐とバトルするような曲を歌っていた。奇しくもこの頃、サザンオールスターズもRCサクセションもバンドとして新作のリリースがなく、ソロやユニットでの活動が活発化している頃であった。

 

1992年のクリスマス・イヴ、少しずつ薄暗くなるマンションの部屋でマイ・ブラッディ・ヴァレンタインの「イズント・エニシング」を聴いていたが、そろそろ小岩に住んでいてボン・ジョヴィが好きな女性に会いにいかなければいけなかったので、外に出た。新宿アルタの上の方にあったシスコ、しかもアナログレコードのコーナーで待ち合わせをそていた。なぜ新宿だったかというと、総武線で帰りやすいだろうという配慮からだった。エレベーターでよく見かけた時とは違い、コートと白いセーターを着ていた。

 

京王線の沿線に住んでいたが新宿には滅多に行かず、だいたいは明大前で井の頭線に乗り換えて、渋谷に遊びに行くことが多かった。よって、新宿の店はまったく知らないし、予約しているはずもない。どもそもこの日に会うことになったのも、数日前の休憩時間に一緒にカレーを食べていた時のノリだったからだ。

 

私はボン・ジョヴィの音楽をあまり好きではない。というか、好きになろうとする努力を怠っているのだろう。エレベーターで豹柄の細いパンツを穿いているのを見たことがあった。まったく好みではない、それがやがて強迫観念となり、歳上のシンガー・ソングライターはツアーに出かけた。

 

しばらく歌舞伎町を歩いている間、一体なにを話していたのかまったく覚えていないのだが、とりあえずその夜、新宿の飲食店はどこもとても混んでいたのであった。それで京王線の下り電車に乗って明大前で降り、しかし何だかとても恐ろしくなって、改札を出てよく分からないドイツレストランのような店に入ったのだ。初めて見るような種類のソーセージの盛り合わせなどをつまみながら、変わったかたちをしたグラスでビールを飲んでいた。そしてその頃(というかその後も15年間ぐらい)、私は煙草を吸っていたのである。少し離れた席でワインのようなものを飲みながら静かに話をしているようだった2人の男性のうちの1人が煙草の煙を嫌そうにしていたので、私は吸うのをやめた。

 

その翌年はカート・コバーンがまだ生きていて、オアシスはまだデビューしていなく、私にとっては猫と生活したことも正社員として雇用されたこともな最後のクリスマスとなった。コクトー・ツインズが「フロスティ・ザ・スノーマン」と「ウィンター・ワンダーランド」をカヴァーしたシングルをリリースし、それをよく聴いていた記憶がある。

 

アルバイト先によく来ていた女子大学生と付き合っていて、25日は土曜日だったので、彼女の部屋から一緒に渋谷に出かけた。とはいえ、やはりまずは渋谷ロフトの1階にあったウェイヴで「NME」の最新号を買うと、キングスベンチというレストランで食事をしていても、年間ベスト・アルバムのことなどが気になって仕方がない。ビョークの「デビュー」が1位で、2位はブー・ラドリーズの「ジャイアント・ステップス、以下、スウェード「スウェード」、レモンヘッズ「カモン・フィール・ザ・レモンヘッズ」と続いた。帰りに途中下車した街のスーパーでワインやフライドチキンを買って、夜は彼女の部屋で過ごした。あのスーパーは千歳烏山のシミズヤだったのではないかと思う。

 

ピチカート・ファイヴの「東京は夜の七時」がリリースされたのは、この月の初めのことだった。キングスベンチはパブパルコと呼ばれていた建物の中にあったが、気がつくとなくなっていた。待ち合わせたわけではないが、もうつぶれてなかった。

 

クリスマス・イヴやクリスマスにはほぼ毎年仕事をしていて、プレゼントを選ぶ親や買ってもらって喜ぶ子供の姿を見ることが多い。クリスマス気分はそれでもう十分である。25日の夜にディスカウントされたケーキを買っては帰ると思うが。