このブログでは時々、「渋谷系」という言葉を便利なので使いがちだが、当の私が「渋谷系」であったかというと、そうではないような気はする。いわゆる「渋谷系」とされているアーティストで、当時、リアルタイムでCDを買って聴いたことがあるのはフリッパーズ・ギターとピチカート・ファイヴとカヒミ・カリィぐらいである。他にもいくつか買ったような気がするが、ほとんど記憶に残っていない。
1994年から広告代理店で働いていたのだが、「渋谷系」的な音楽の話題で盛り上がれるような環境ではなく、週明けは阪神タイガースと「ダウンタウンのごっつええ感じ」の話題で持ちきりであった。因みに私は1980年代には「オレたちひょうきん族」や「お笑いスター誕生」が大好きだったが、1990年代にはお笑いをほとんど観ていない。ダウンタウンの番組はたまに観て面白いとは思っていたのだが、周囲の信者的な松本人志ファンがキツすぎて、やや引いてみていた。「熱血!ウエストサイドストーリー」で松本人志と今田耕司がやる「浜田雅功♪」「ヤンヤヤヤヤヤヤ♪」というシリーズはわりと好きだった。
それはそうとして、金曜日の夜などに明大前のカラオケパブに飲みに行き、植田まさしの4コマ漫画にでも出てきそうな30代の先輩が小沢健二の「ラブリー」を歌った。「LIFE」のCDをパチンコの景品でもらったらしい。「OH BABY」の部分で、王貞治の一本足打法のポーズを取っていた。
先輩や上司から休みには何をしているのかと聞かれたので、渋谷にCDを買いに行ったりしている、というようなことを言った。からかい半分に「渋谷系」などと言われていたが、それはおそらく何年か前に「新人類」などと呼ばれたのと同じようなニュアンスだったのではないかと思う。
スキンヘッドの上司がいて、確か島根県出身で大阪の大学を卒業していたのだが、カラオケではシャ乱Qの「ズルい女」ややしきたかじんの曲などをよく歌っていた。気がつくと会社の飲み会ではカラオケで一緒に「今夜はブギー・バック」を歌うことが恒例化していたし、退社後、2001年ぐらいに行われた彼の結婚披露パーティーの二次会でも歌ったはずである。一次会では私と新婦の友人だというセクシー女優が一緒に司会をやり、当初はDJをやってくれといわれていたのだが、会場の設備の都合でミックステープを流すだけとなった。ビッグ・マウンテンの「ベイビー、アイ・ラヴ・ユア・ウェイ」だけは必ず入れてくれと言われていた。
最近、「渋谷系」について書かれたブログを読んでいて、六本木ウェイヴが閉店したのと渋谷にQFRONTがオープンしたのとが、同じ1999年だということを知った。当時、どちらのイヴェントも知っていたはずなのに、これらを関係づけて考えることはまったくなかった。この頃、六本木ウェイヴにはもうすでにほとんど行かなくなっていたし、かなり普通のCDショップに近い感じになっていたのだが、私の記憶の中の六本木ウェイヴは1980年代から1990年代初めぐらいまでの、きわめて特別な場所のままであった。そして、TSUTAYAについてはCDも扱っているというので見にはいったのだが、洋楽アーティストをカタカナ順に陳列している時点でこれは完全に私には合わないと思い、まともには見なかった(とはいえ、会員にはなっているし、実際に結構レンタルしたこともある)。
私が渋谷にあまり行かなくなったのは、あまり面白いと思えなくなったからなのだが、それがいつ頃かと考えると、やはりQFRONTだとか東京マークシティが出来た頃なのである。
なぜこんなことを書こうかと思ったかというと、つい最近、ツイッターのタイムラインを見ていると、ピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターは「渋谷系」というよりは「六本木系」だとか、それは六本木ウェイヴに行っていた人たちのことなのだろうか、とかいう内容のツイートがあり、それにインスパイアされたのである。
私はポップ・ミュージックのミーハーなファンであり、特定のジャンルやアーティストに深くのめり込むこともなく、その時々にカッコいいと思った音楽をつまみ食いしているような者なので、「渋谷系」の人たちのような感じではまったくないのだが、1990年代の初めぐらいの一時期、六本木ウェイヴではマイナーなスタッフとして働いていたことがあり、確かに後に「渋谷系」と呼ばれるようなアーティストたちの姿はよく見かけたし、社員やスタッフにもそれらの音楽を好んでいる人が多いように感じられた。
あと、六本木ウェイヴの地下にシネ・ヴィヴァン六本木というミニ・シアターがあったのだが、ここでは「渋谷系」の人たちに人気がある映画がよく公開されていた。また、このシネ・ヴィヴァン六本木と近くにあった青山ブックセンター六本木店で掛け持ちのアルバイトをしていた若者も、後にデス渋谷系と呼ばれるような音楽活動を行っていた。
後にバッファロー・ドーターを結成するメンバーが在籍していたハバナ・エキゾチカというバンドのエントランス・ライヴが行われ、私はそこに配置された。六本木ウェイヴの場合、インストア・ライヴではなく、入口でエントランス・ライヴが時々行われていた。オリジナル・ラヴも当時、確かやっていたのだが希望する女性スタッフが多すぎて、私は店内で普通の仕事をしていた。その時のハバナ・エキゾチカのアルバムを小西康陽がプロデュースしていたこともあり、私のすぐそばでノリノリで踊っていた。ピチカート・ファイヴの何かのヴィデオが、確か六本木ウェイヴの店内でも撮影されていたはずである。また、フリッパーズ・ギターのメンバーの姿も、特に小山田圭吾についてはかなりの頻度で見かけた。
六本木ウェイヴが後に「渋谷系」と呼ばれるような音楽ばかり売っていたかというと、けしてそんなことはなく、ジュリアナ東京のCDなどもすごくよく売れていた。しかし、ある社員がつくっていたコーナーに、ソフト・ロックとかネオ・アコースティックとかサウンドトラックとかがセレクト・ショップ的に集められていて、ハーパーズ・ビザールのアルバムがCD化された時には大きく展開されて、ピチカートやフリッパーズのファンは必聴というような手書きPOPも付いていたので、おそらくそういう人たちをターゲットにしていたし、実際に売れてもいたのだろう。
その頃、短期のアルバイトで入ってきた女子大学生がいて、仕事中にCDの試聴ばかりしていたのと遅刻が多いのでクビになるのだが、私は彼女のことが嫌いではなく、というかむしろ積極的に好きで休憩時間に喫茶店に誘ってコーヒーをおごったりしていたのだが、そのお礼にもらったカセットテープがまさに後の「渋谷系」という感じだったのだが、このことは以前に書いたような気がする。
私が知らないような音楽をたくさん知っているのだが、いわゆるロックの名盤のようなものについてはほとんど知らない。この新しいリスニングスタイルに衝撃を覚えたのだが、どうやらフリッパーズ・ギターがやっているラジオ番組を参考に情報交換をしたりレコードを買い集めたりしているということが分かった。私は高校生の頃にアズテック・カメラとかザ・スタイル・カウンシルとかが何となく流行っていたので好きで聴いていて、それからしばらくして、それらに影響を受けたような音楽を日本語でやっているということでフリッパーズ・ギターに興味を持ち、衝撃を受けたのだが、この新しい人たちにはかなりの希望を感じた。おそらく「渋谷系」の中心となったのは、この人たちだったのだろう。
それは1992年ぐらいの話なのだが、「渋谷系」という言葉はまだ聞いたことがなかったが、フリッパーズ・ギターはすでに解散し、ピチカート・ファイヴは野宮真貴を迎えた新体制となっていた。
「渋谷系」という言葉がいつ頃から流通しはじめたのかというと、それは1993年ぐらいなのではないかという説をよく見かける。1993年の私は個人的な事情により、日本のポップ・カルチャーを意図的に遮断していたのでよく覚えていないのだが、小沢健二のソロ・デビュー・シングル「天気読み」をアルバイトをしていた深夜のローソンで聴き、スティーヴィー・ワンダーみたいでカッコいいなと思っていた。その時、客として来ていた「ロッキング・オン」読者の女子大学生と後に付き合うことになるのだが、告白されたのは友人と小沢健二のライブに行ったという夜の電話だったと記憶している。
1993年に何があったかというと、パルコクアトロにウェイヴがオープンしたのである。渋谷ではウェイヴがすでに1987年の段階で、ロフトの1階でオープンしていたのだが、パルコクアトロのウェイヴは、より「渋谷系」色が強かったような気がする。当時、パルコクアトロのウェイヴのオープンにあたり、六本木ウェイヴからも少なからぬ数の社員が異動していたような気がする。私はその少し前に個人的な事情があって辞めたので、クアトロの店頭で「ボディーガード」のサントラ、というかホイットニー・ヒューストンの「オールウェイズ・ラヴ・ユー」をラジカセでリピート再生しながら、渋谷の街を行く人々にCDを売っていた。そんな風にCDが売れた時代が本当にあったのだ。
「渋谷系」と言えば、ONE-OH-NINEというかマルハンパチンコタワー、現在のMEGAドン・キホーテの建物にあった頃のHMVの印象が強いが、あの「渋谷系」的なコーナーができたのはいつ頃だったのだろうか。それもよく覚えていないのだが、宇田川町を中心とした小さなレコード店の数々とも相まって、この頃から渋谷が盛り上がっていったのだろうか。とりあえず、そんな感じである。